復興の希望が全世界へ

チア・シード

イザヤ60:1-3   


教会を会場にしての、夏の宿泊キャンプは、費用が抑えられます。それでも子どもたちにとり、外泊というものはわくわくするものです。よく眠れたか知れない朝、早天の集会が開かれます。そこでお話を担当する機会がありました。イザヤ書60章の冒頭を取り上げ、「起きよ!」と、ちょっと叫ぶように呼びかけて告げました。
 
笑いも出ないほど、子どもたちは寝心地のよくなかった環境での朝を迎えていたようでした。そもそも、聖書のお話を朝っぱらから聞くというのは、決して楽しみであったわけではなかった、とも言えます。では、イスラエルの一般の人々は、預言者の言葉を、どのような顔で聞いていたのでしょうか。神妙な顔なのか、驚きの顔なのか。
 
あるいは、無表情だったのでしょうか。それはまた、ガン無視という意味なのでしょうか。神の言葉を預かるという意味を、日本人はわざもたせていますが、人々がそれを本当に神の言葉だと受け止めていたかどうかは不明です。イザヤは捕囚前に活動していたはずですが、60章のイザヤは、必ずしもそうではない内容を語っていると言えます。
 
絶望的な情況から、かすかな希望の道が現実となり、新たな国の再興が始まっています。これもまた、主なる神の言葉に基づく始まりである、と定めたいのかもしれません。神の呼びかけで、イスラエルは目覚めます。そして「光を放て」との超えに、輝きを取り戻します。それは、エルサレムの町です。破壊されたままの神殿が痛々しくとも。
 
傷ついたエルサレムは、すっかり闇となったイスラエル全土の中で、主が現れて輝き始める、というのです。主の栄光がエルサレムの上に昇ってきます。恰も太陽のように、主が輝くのです。イスラエルの民はそれを見ます。これまでの悲惨な歴史はもう終わった。これからは、この光の下で希望を以て歩き始めるのだ。預言の言葉に励まされます。
 
しかし、この栄光の神は、単にイスラエル民族だけの宗教の拝む神であるだけで終わりはしませんでした。国々が、この光に向かってやってくるのだ、と言っています。世界の王たちが、主を求めてやってくるのだ、と。イザヤは、敗れた祖国の復興が、実は全世界の国と人との癒やしであることを、ここに広く告げ知らせたのでした。


Takapan
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