闇に輝く光

チア・シード

イザヤ60:1-7   


実際ユダヤの民が、バビロンの町から解放されて帰還した姿を知っているからなのかもしれません。イザヤ書の終わりのほうは、希望に満ちています。この喜びは、確かに起こった現実を踏まえているからこそ、生き生きと描かれているのでしょう。でも、捕囚の中にあった民がこの預言を受けたという設定だからこそ、味があります。信仰があります。
 
世は闇に覆われています。でもイスラエルの上には主の光があるのです。主の光があってこそのことですが、イスラエルは光を放つことができるのです。自ら輝き出すことはできません。人や民族自体に、輝く力はありません。しかし、他の人々や国々からは、イスラエルそのものが光を放っているかのように見えることでしょう。
 
夜空に月が輝いているのと同様です。月を見上げる人々の視点を、私たちは感じるでしょうか。イスラエルを世界は見つめていますが、私たちも、そうした光を放っている存在として見られているはずです。イザヤの表現は、らくだや黄金と乳香を描きますが、これを新約のマタイは受け継いだものと思われます。そう、クリスマスの博士の贈り物です。
 
羊の群れが献げられるものとして集められています。これをキリストと見ればよいのでしょうか。キリスト者と見るべきなのでしょうか。いまはよく分かりません。主の祭壇は、その犠牲により麗しくなるでしょう。豊かなイメージは、イスラエル文化の中でこそ得られるものですが、私たちなりのイメージで受け止めることも悪くありません。
 
財宝なのか、株券なのか、電子マネーかもしれませんが、ともかくここにある描写はやはり聖書の各所へつながり得るものでしょう。クリスマスの物語で、この闇の中の光を私たちは見ました。人の世の暗さ、私の心の暗がりの中に、神はいつも光を射し入らせます。私の中に、人の中には闇しかなくとも、主の光を放つことは、きっとできるのです。


Takapan
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