救いの光という結末

チア・シード

イザヤ60:14-16   


荒れ果てた現状しかいま目に見えないのに、それが鮮やかな光の中で回復し栄えている様子を預言者は描きます。勇気ある幻です。私たちもできればそういう目で、この荒廃した魂の時代に、理想の姿を重ねて見たいものです。一つの前提は、このイスラエル、特にエルサレムが、これまで痛めつけられたということ。十分過ぎるほど苦しめられたのです。
 
侮られ、捨てられ、憎まれました。私たちはどうでしょうか。自分自身もそうですが、もっと辛いことを強いられてきた人々への慰めに、なるでしょうか。けれども、他人を辛くさせてきた張本人はどうでしょうか。他人の痛みを、自らのしたこととして受け止めることができたとき、わずかでも自分の中にそれを痛みとして覚えることがあるでしょうか。
 
悲しい哉、その力の欠落した人間もいます。それは恐らく、神の恵みを感じることができない人でしょう。悔い改めを知らないような「信仰」は、聖書の世界ではありえないことです。旧約の偉人の中には、悔い改めという言葉を寄せられない人のことが度々あります。しかし新約の光に照らされた人にとっては、そのようなことはありません。
 
また、悔い改めというが180度の方向転換であることを考えるならば、やはり誰もが、主の方へ向くという意識が与えられたのであるに違いありません。かくしてシオンは主の都となり、とこしえの誇りとなります。主が、私の救い主となり、贖い主となり、力あるお方として共にいてくださることを、私は十分に体験することになるのです。
 
豊かな報いを得るこの都は、主の光で輝き照らされることでしょう。存在感を失った惨めな姿とさせられた神殿や都は、いつか美しい結末を迎えます。預言者イザヤはそれを私たちに知らせます。その栄光の都は、確かに結末なのです。終わりがない世界の物語ではなく、終わりというものがあるからこそ、聖書はそれを堂々と語るのです。


Takapan
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