破れ口に立つ者は誰か

チア・シード

イザヤ58:10-12   


城壁の破れ口に立つ者はいないか。エゼキエルは二度、主がこう問いかけていることを記録しています。当時都市とは城壁に囲まれているものでした。攻められても防ぐ囲いが必要です。そして戦争では、その城壁を境目としての攻防があり、また時に兵糧攻めもありました。城壁も完璧ではありません。弱いところがあると、そこから侵入されました。
 
その弱点を防ぐために立ち上がる勇士が求められました。これが町の救い主でした。人間は個人的にも集団的にも、このような弱さが満載の存在です。人間は悪魔の侵入を簡単に許す者であり、罪に見舞われ、神との間に立つ場をもつことができません。イエス・キリストがその間に立ち人と神との間につなぎをもたらしてくれるのでした。
 
しかし、詩編106:23では、モーセが神と人との間に立ち、人が滅ぼされるのを防ぐことが描かれています。このモーセの姿が、キリストを呼んでいるとも言えます。キリストが間に立っているのは、単に滅びを避けるためではないでしょう。キリストは、人が生きるようにしました。人を助ける者が生きて、助けられる人も助ける人も生きることになります。
 
イザヤはこの構図を、別の形でここに提示しています。闇の中にいる者に光をもたらす者は誰か。飢えと苦しみを助けるならば、あなたは真昼のように輝く。イザヤは光を放つようにこの後で告げることになりますが、特にこの第三イザヤにとり、光のイメージは強く表に立ちます。主は常に共にいるからイスラエルは輝け、と促されるのです。
 
何もすべての者がそうしろという訳ではない。廃墟を建て直す者がきっといることでしょう。そうしてできる礎は、代々に続くことでしょう。キリストは信ずる者の拠って立つ岩となるはずでした。イスラエルの中の救われる者のことを言っているには違いありませんが、キリストにまでは及びません。究極の救いはキリストに委ねますが、それでも期待します。
 
モーセの役割を果たせとも言わないが、城壁の破れを直す人、道を修復する人がきっといる。それはあなたではないか、あなたはそのように呼びかけられていないか。私たち一人ひとりが励まされています。修復するその人にならないか。神と人、人と人との間の破れをつなぐ存在とならないか。小さな破れを防ぐことは大きな害を防ぐ力をもっているのです。


Takapan
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