立ち帰れという預言者

チア・シード

イザヤ55:6-13   


見出すことができるうち、主が近くにおられるうちに、主の方へ向きを変え、呼びかけるべし。だから主に立ち帰れ。主は憐れみ、赦してくださるのだから。いったい、この預言者は、いまどこにいるのでしょうか。主の側にいるということでしょうか。もちろん、だからこそ主の言葉を預かる預言者という名前を受けているには違いありません。
 
しかし、預言者自ら、これを己れ自身に言い聞かせているとは考えられないでしょうか。もし自分が悪者であったとしたら。もし不正な者であったとしたら。いや、そこまで考えてはいないかもしれませんが、主に立ち帰れ、と自分に向けて戒めの言葉を向けている意識が、もしかするとあるのかもしれません。否、あってほしいものです。
 
それは、いま教会として集う私たちのことに該当するからです。私たちは、もうすでに主に立ち帰っており、偉くなった、だから世の罪人たちに信ぜよと呼びかけているのだ。そんな図式がかつてあり、そんな讃美歌の歌詞もありました。もちろん、そのような信仰が全くけしからん、などということはないことは分かっています。
 
けれども、ファリサイ派もこうした経緯を辿り、イエスの非難を浴びることとなったのだと私は感じます。主の思いは人の思いとは異なり、はるか遠く離れている、と預言者は言います。このような「あなた」つまり人の中に、私もいるのだと自覚します。そう思いませんか。ただ、その故に不必要に怯えることはないだろう、とも思います。
 
主に贖われたのならば、喜ぶがいい。その道は平和へと導かれて行くことでしょう。その上で、高慢になってはならない、と自戒するのです。このバランスはある意味で絶妙ですが、そのバランスの内にあるためには、信仰と知恵が必要だと思われます。私たちはそのために、大いに悩み、考えてよいと思います。安易な結論を急がないようにしましょう。
 
主の言葉は、無駄に消えることはないけれども、たちまち結末が出るということもありません。主の「言葉」は、ヘブライ語の意味と同様、「出来事」となります。これを信じるところにこそ、主と共にある私たちの生き方が成立します。この平和への道は、自然存在も加わり、華やぐことになります。イザヤはそんな幻を見ています。美しい幻です。


Takapan
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