希望を与える

チア・シード

イザヤ55:1-13   


食べよ。飲め。そうすれば、魂が豊かさを楽しむ。ひとつの象徴がここにあることが分かります。魂が生きるためのことを告げているのです。それは神との永遠の契約に基づくものです。ダビデとの約束により、その道が与えられました。神の示す根拠ははっきりしています。この良い知らせは、そもそも縁のない国々へも伝わり、この契約に結びついてくるのです。
 
私たちはここに糧を求めているでしょうか。主へ呼びかけているでしょうか。この主にこそ、求めていると言えるでしょうか。しかも、本当は主の法から求められており、呼びかけられているということに、気づいているでしょうか。だから主に立ち帰れ、とイザヤは呼びかけます。イザヤとは何者なのでしょう。荒野で呼ばわる声ではないでしょうか。
 
それは民族の同胞の一人でもありますが、確かに道を拓き、導きをなす者です。神ではないが、神を指し示す人。預言者とはそういう存在であり、その人が偉いとか立派だとかいうものではありません。ただの看板であり、道標です。こちらを見れば神を知る、神を体験する、と呼ばわる声の役割を果たすのです。私たちもまた、預言者たりうることを教えています。
 
神の考えは、人の考えとは異なることを明確にしましょう。人を超えているという神の性質については間違いないことでしょう。そして与える神としてそこにいて、人を恵む神であることをやめることがありません。そのために、働くのは言葉です。神は言葉として働き、言葉として私たちの心を動かします。姿をとった言が、イエス・キリストなのでした。
 
それは人間に及ぼす、決定的な力です。実際どのように与えられたのか、という現象によってでは、その力は認めがたいだろうと思います。ただ、神の口から出る一つひとつの言葉は、決して空しく消えることはありません。必ず成就するという希望が与えられます。いえ、その希望を握り締めます。そうしてこれを胸に納める人が、生かされるのです。
 
人がもし喜びや平和をひとつの理想として掲げるとするなら、この神から来るものに拠るしかありえないでしょう。この世界の万物が祝福されるのであれば、私たちは神の力が必ず成ると信じ待つこともできるはず。その姿はしるしとしていまこの目に映ります。イザヤが与える希望を、キリスト者はほかの人にもたらしたい。イザヤのように働きたいと願います。


Takapan
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