その姿をイエスに重ねて
チア・シード
イザヤ53:8-12
「この人は」(53:2)と指す相手が誰のことなのか、解釈はいろいろあることでしょう。キリスト教徒は、これを紛れもなくキリストのことだと必ず言います。そうでないと、キリストとは何であるかを基礎づけられないのです。神に打たれた様については、今は目を注がず、ふだんあまり注目されないところに向き合ってみたいと思います。
人々は、皆思った。その死は当然だ、と。「私の民の背きのために彼が打たれ/生ける者の地から絶たれた」と見たのは、後の世代の人々です。私たちです。悪人と同じように見なされ、一緒くたに殺された、不幸な存在でした。主が、彼を打ち砕きました。主によって病に苛まれました。その命は「償いのいけにえ」となりましたが、「その子孫を見、長寿を得る」というのは、少なくともイエスとは重なり難いような気もします。
文字通りに取るならそうです。でも、イエスの命を与えられた者は、次々と世代の中に与えられます。永遠の命という形で、このようなことを伝えられます。イエスの贖いの故に、人間は命を受けました。そしてそれが「主の望み」なのでした。「彼は自分の魂の苦しみの後、光を見/それを知って満足する」とは、いかにも人間的なことのようでもあります。
が、喜びに満たされている神のあり方がうっすらと見えてくるような気がします。イエスの十字架の死は、「多くの人を義とし/彼らの過ちを自ら背負う」のでした。果たしてイザヤがこうしたイエスのことを意識していたかというと、それは無理でしょう。イザヤが見ていたのは、祖国イスラエルの姿だった、ならばまだ分かります。
でも、「多くの人の罪を担い/背く者のために執り成しをした」とまでイメージが重なってくると、イスラエルというような抽象的なものには難しくなるでしょう。レトリックでそれを示す、とまでは考え難いものです。生々しい犠牲があり、この私に罪があり、それを執り成すという命の差し出しによって赦されたという故にこそ、そう記されたのです。