苦難の僕は自らを献げたのか

チア・シード

イザヤ53:8-12   


キリスト教徒は、ここにイエスの姿を見ます。それがキリスト教の解釈です。ユダヤ教徒はどうでしょう。イスラエル民族の苦汁をを見るのでしょうか。イザヤの見た幻はイザヤにしか分かりません。残されたメッセージは、それに出会った者がそれぞれに受け止めるしかありません。どれが正しくてどれが間違っていると私たちが決める必要はないでしょう。
 
身代わりとして犠牲の小羊となった姿がここにあるとしても、一つ注目しておきたい箇所があります。この僕は、自らを償いの献げ物とした、と記してある点です。献げ物は当然動物のはずです。いけにえです。擬人化が働いているのではないかと思案しても、やはりここでは犠牲になっているのは明らかに人です。こうした場面は聖書の中にここしかありません。
 
あるとすれば、偶像の神に子をささげたというような忌まわしい記事だけですし、せいぜいイサクを献げようとしたアブラハムの出来事くらいでしょうか。ここは自分を献げ物としたというのですから、只ならぬ事態です。しかも、その上で子孫が末永く続くのを見るというのですから、私たちは混乱してしまいます。
 
フランシスコ会訳の解説はここに、主が彼の命を献げ物としたと訳せる可能性を知らせています。分かりやすい説明です。曖昧な表現ではあるのです。イスラエルが、という主語を考えることもできるかもしれないし、七十人訳はここでいう「私たち」が彼の命を献げ物とした、と解している旨も記されています。
 
いずれにしても、これは償いのためです。神の意は、ここでの出来事を通じて成就すると言い、この後の歴史が刻まれるとするのですが、それが永遠であるとして、永遠の命を読み込むことができるかもしれません。だったらここに希望が芽生えます。僕はここに「成就した」と呟くことができるようになります。イエスの言葉が重なってきます。
 
僕は、他の人の罪を負って、多くの人を義としたとしています。全ての人が、とは言っていません。僕はイエスのように罪人のひとりとして数えられましたが、執り成しもしました。背く者すら義となるように、と。これを教義として定める必要はありません。この記述に出会った私が、これを自分のこと、自分のためだと受け止めるかどうかが問題なのです。

Takapan
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