関係形成の出来事

チア・シード

イザヤ53:4-9   


普通、53章全体が引かれることでしょう。しかし今回は、そのうち4-9節をペリコーペとして取り上げられました。この意味はどこにあるのでしょう。これ以外のところは「彼」と神または人々との関係が描かれていますが、当該箇所では「私たち」または「私」と「彼」との関係に徹しています。これを軸に読み受けていきましょう。
 
彼は、私たちの病と痛みを負担しました。私たちの背きと過ちのために彼は懲らしめられ、一方で私たちに平安が与えられました。私たちは羊のように彷徨っていましたが、小羊としていけにえになったのは彼の方でした。裁きが彼を痛めつけ、命絶たれました。何の悪も偽りもなかったのに、葬り去られたのです。
 
それは「わたしの民」の背きの故でした。しかしその「私」はここにいるこの私です。私たちと呼ばれる無人格の群衆の中に隠されているのではない、紛れもないこの私。その私が彼をそこへ追い遣りました。私と彼との関係という点から、この叙述に浸らなければなりません。他人事のように十字架を語ることは、誰にもできないのです。
 
あの聖金曜日、イエスは過越祭にあたり十字架刑に処せられました。自らの死刑台である杭を背負わされ、引き回されました。だとすれば、その杭こそが私たちの、否私の罪でありました。さらに、全人類の罪がその杭にのしかかっていました。重みに耐えられない彼ではありませんでしたが、時折よろめきさえしたことでしょう。
 
打ち砕かれ、刺し貫かれたというその姿に感傷的になっている場合ではありません。まさに私が、そこにのしかかっているのです。誰かを私たちが責めるとき、私もまた同じ言葉によって責められるという経験をしない人はいますまい。その間に「彼」が入ってくるのです。それは誰か。学者たちは議論します。でも、イエスでよいではありませんか。
 
かの力無きイエスは、このことによって、キリストとなったのです。私はそのとき、キリストに出会いました。その出来事が確かに刻まれました。病をすべてそこに置き、こちらには平安が与えられました。難の中の私は癒されました。この小羊の献げ物は、私からのものだとは言えません。ただ与えられるのみ、受け取るのみなのです。


Takapan
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