「私たち」と「私」との間

チア・シード

イザヤ53:1-12   


彼は、自分の命を死に至るまで注ぎだした。だが背く者の一人に数えられた。このような不遇な目に遭った「彼」が、多くの人の罪を担い、自らその一人として数え入れられていました。背く者どものために執り成しをもしたというこの「彼」について、キリスト者であれば誰もが、ここに一人の姿を重ねて見るものでしょう。
 
一つひとつのこれらの証言にコメントすることすら不要なほどに、イエス・キリストその方のことしか考えられなくなることでしょう。従って、それを今ここで取り上げて再現して説明しようというようなつもりは私にはありません。ユダヤ教側での見解もあれば、歴史的な研究に基づく理解もありますが、これらを検討しようとは今は思いません。
 
この「彼」を誰が見ているか、そこに注目します。誰か。それは「私たち」とまず冒頭から記されています。預言者イザヤと、それを含むイスラエルの人々であるとしか思えません。この「私たち」は、イザヤの告げたようなことを聞きました。彼を尊びませんでした。「私たち」の病や痛みを、彼が負担しました。
 
そのことを知らずに「私たち」は、ただ彼が苦しんでいる様を見ていただけでした。でも後から分かります。実は「私たち」の背きと過ちのために彼がそういう目に遭っていたのでした。そのため「私たち」に平安が与えられました。「私たち」は現実には目的をなくし、何をしてよいか分からずに、ただ迷い彷徨っていたのでした。
 
この「彼」の時代の誰も気づきませんでした。「私」の民の染む気のためにこれらは起こった出来事なのだった、ということに。ここでイザヤ個人の意識が表に出て来ました。イスラエルの民を「私」の民だと言っているからです。預言者の意識は、主なる神の視点であるとも言えるわけですから、これは主の民という捉え方も可能になるでしょうか。
 
「私」の正しき僕、とこの「彼」を称するその「私」は、すでにイザヤではなくなっています。「私」が多くの人を「彼」に与え委ねたときも、イザヤではありません。こうしてイザヤの口から発されていた言葉は、いつしか神の言葉へと変貌します。注意していないと見落とします。人間に過ぎない私は、「私たち」に徹して味わいたいと思いました。


Takapan
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