彼との出会い

チア・シード

イザヤ53:1-5   


主の腕は誰に示されたか。主の手が誰かに襲いかかるという意味でしょうか。ここに、いわゆる主の僕の最も激しい様相が描かれ始めます。キリスト者はこれを、イエス・キリストのことだと見ます。どう見てもそうでしょう、と言います。本当でしょうか。イザヤにどうですかと尋ねたら、イエスを見ていますなどとは決して答えないでしょう。
 
学者たちは、これを特定の誰かのことをモデルにしているとか、イスラエル民族の象徴ではないかとか、様々な説を教えてくれます。どれもよいのではないかと思います。どれが間違っているというのはおかしい。聖書は、それぞれの人にそれぞれの仕方で立ち現れます。隠されていたことが露わになる、それがそれぞれの人にとっての真理です。
 
だからまた、これだけが正しい、他は間違っている、と決めつけるのも、もっとおかしい。そう判断した自分だけが正しいとして、いわば自分で自分を神と宣言することになるからです。あなたはこの痛々しい人、この「彼」をどう見るか。この「彼」とどう出会うのか。ここにある切迫した描写を、傍から私たちは眺めようとしていないでしょうか。
 
降誕劇で、宿屋の主人を演じたその精神に障害をもつ少年は、台本通りに夫婦を追い返した後、耐えられなくなって慌てて叫ぶ。待ってください、ここへ泊まっていって、と。劇をある意味で台なしにしたこの子こそ、このイザヤ書が求めていることではないでしょうか。手を差し伸べてはいけないのか。思わず歩み寄ってはならないか。
 
醜く打たれ傷ついたその痛みが、自分のせいだと切実に迫ってくるならば、いたたまれなくなってくるではありませんか。いつから教会は、これを本の中の出来事にしてしまったのでしょう。いつから私たちは、さも上手に説明できる教義にしてしまったのでしょう。その方の痛みと血の苦しみから、遠ざかってしまったのでしょうか。


Takapan
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