ただの伝道の勧めではない

チア・シード

イザヤ52:7-10   


「良い知らせ」がこのメッセージの鍵です。それは「救い」であり、歓声となり、喜びの歌となります。それは伝えられるものであり、告げられるものです。誰が伝えるのでしょうか。誰が告げるのでしょうか。こういうことを踏まえた上で、そういう者の足が美しい、とされているのです。必ずしも美脚をイメージさせるつもりでないことは明らかです。
 
神の救いを信じる者は、そして神の救いを受けたと経験する者は、伝えなければなりません。告げなければなりません。普通、こうしたメッセージが壇上から語られることでしょう。誰に伝え、告げるのか。すべての国民、地の果てのすべての者へ、となるのでしょう。さあ、だから宣教しよう、誰彼ともなく福音を伝えるのだ、それもよいと思います。
 
確かにそうなのですが、しかし、それがすべてだというわけでもないと思うのです。現に、この聖書箇所を以て壇上から語っていることに気づきましょう。信徒へ向けてのこの語りもまた、良い知らせであるはずです。そうして、シオンの見張りが「あなたの神は王となった」という声を耳にし、またそれを喜んでいるのです。
 
荒廃したエルサレムが回復したのを見る民の喜びが、イザヤの見ているものです。福音伝道のことではありません。あなたたちはエルサレムへ戻ってきたではないですか。これは喜びだにほかならないではないですか。主の慰めを知る者は、そもそも主を知つているからこそ、慰められたと分かるということに、注目してみましょう。
 
ただ、その主の業が、いまや世界すべてに知られるものとなった、イザヤと共に気づくのは、そういうことです。神がイスラエルを救ったというその業を、全世界が知るようになったし、これからも知るようになる、というのです。私たちは救われているでしょうか。私たちが、この主の救いに、喜びの歌を以て応えているでしょうか。問題はそこです。


Takapan
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