わが僕はキリストなのか
チア・シード
イザヤ52:13-53:12
「わが僕」と呼ばれる者が現れます。そこからずっと「彼」と称されます。特定の人物を表しているのか、何かをなぞらえているのか、それは分かりません。恐らく後者でしょう。結局、キリスト者は、これがキリストの姿だと見なします。旧約の言葉が、キリストを指し示すのだと信じているからです。十字架への道を歩むキリストの姿に相応しい描写です。
「その姿は損なわれ、人のようではな」いとするイザヤ書52章は、ふだんあまり注目されないかもしれません。人々も、彼のことを口にするのもおぞましい、というふうになります。だがイザヤはここの初めにそうではないことを掲示していました。「見よ、わが僕は栄える。/彼は高められ、上げられ、はるかに高くなる」と。
これがあるから、どんなに貶められても、その向かう先は希望の中なのです。しかし「主の腕」は、この惨めな僕の上に示されました。「見るべき麗しさも輝きもなく/望ましい容姿もない」者の上に。こうして表現を挙げてゆけば際限がないくらいに、目も当てられないその姿は、どうしようもなく不幸です。不幸の極致です。
そこで、この僕をイスラエルのことだ、と見る人がいても不思議ではないと思います。国とて小さく弱く、常に大国に虐げられていたのは確かです。しかし不死鳥のように甦ったのもイスラエルの歴史です。当時の大帝国は当時の「世界」を支配していたにも拘わらず、一旦滅亡すると影も形もなくなってしまいました。
国が戦いで敗れたら、それは国を護る神が役立たずだった、と考えがちな古代に於いて、それは神のせいではなく人間の方の不信仰の故だとするのが、イスラエルの信仰でした。その神は死にません。神は決して死なないと信じてきたのが、イスラエルの強さの秘密でした。自分が弱いと知る者こそ、実は強いのです。神こそが偉大であるからです。
神がこの僕を打たれたからこそ「私たち」に「平安が与えられ」「癒やされた」のです。この「私たち」とはイスラエルのことですから、僕は同じイスラエルとは考えにくい。「私たちの痛み」をこの僕が負い、「私たちの背きの罪」のためにこの僕は痛め避けられ、私たちは癒やされました。主がこれを望み、やはりこれをキリストの姿としたいものです。