どこで見ているのか

チア・シード

イザヤ52:1-10   


心得ておくべきことは、この直前の箇所で、エルサレムがとことん潰されていることが書かれている、ということです。イザヤは、時に慰め、時に踏みつけ、イスラエルを極端に扱い、揺れ動かしています。あなたは破壊され、慰める者などいなかった。主への背信が招いた事態を十分思い知らせ、それから救いを宣言します。「目覚めよ」と。
 
繰り返される「目覚めよ」は、重要なメッセージです。シオンと呼んでいますが、もちろんエルサレム一帯のことです。ただ、ここではひたすらシオンと呼びます。神殿のある町すべてと人々を巻き込む形で抱え込んでいるかのようです。「美しい衣をまとえ」「塵を落として立ち上がれ」などと励まし、「聖なる都エルサレム」は今贖われます。
 
主の眼差しが、エジプトから直ちにアッシリアへ飛んでいるのが目を惹きます。ダビデの活躍も、国の栄華もなにもありません。民が苦しんだ時期だけが取り上げられています。奴隷や捕囚の憂き目だけです。どちらも主の救いにより力をまとうことができるわけです。「私はここにいる」と主が今ここでもまた告げています。
 
これを知らせるのは誰でしょうか。私たちから見ると、もちろんイザヤです。しかここに「なんと美しいことか」と称えられる者がいます。「山々の上で、良い知らせを伝える者の足」が美しいのです。平和、良い知らせ、そして救いをシオンに伝える者は、ここから見る限りイザヤに外なりませんが、イザヤ本人が告げている点が不可解です。
 
イザヤ自身はこの情景を、外から見ているとしか思えません。預言者というのは、神から言葉を受け、それを人々に伝える者であり、神と人との間に介在する立場にいます。その発言は神からでもあり、人の言葉でもあり、時にパラドキシカルに聞こえます。シオンには「見張り」なる者がいて、「声を上げ/共に喜び歌う」というのです。
 
しかもこの様子を、「地の果てのすべての者が、私たちの神の救いを見る」というのですから、シオンの有様は、さながら舞台での演劇であるかのようにすら思えます。私たちは今、これをどこで見ているでしょうか。ただの観客にすぎないのでしょうか。当事者ではなく、無関係な存在なのでしょうか。イザヤをすら、遠巻きに眺めているのでしょうか。


Takapan
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