希望に満ちた言葉の先に
チア・シード
イザヤ51:11-16
イザヤ書の終盤は、なんと清々しいことでしょう。希望が溢れています。光に包まれています。胸が熱くなります。一方で聖書は、人の罪をあばかねばなりません。これなしには、希望など実はないのです。イザヤ書は、他の預言者たちほど全面的に、ではありませんが、やはりイスラエルの民の罪や背信については確かに告げています。
それでも、今ここでは救いを語っています。捕囚の民が帰ってくるのです。いま主により救い出されるのです。もちろん事後予言であるにしても、出来事の解釈は、ただの歴史的叙述に留まりません。私たちの時代にまで及び、かつてと同様に、私たちの未来をも創造しようとするのです。そこには「歓声」があり、「喜びと楽しみ」が民を包みます。
主がこの民を慰めています。痛みから癒やしてくれます。死すべき人間を恐れる必要はありません。それらが虐げることをしても、あなたは滅びません。バビロンでの、人間による強権には、究極的な力はなかったのです。永遠の責めが及ぶようなことは、ありませんでした。そこで、「自分を造り/天を広げ、地の基を据えられた主」を思うのです。
主は共におられます。あなたを慰めます。もはや怒りを向けられることはありません。捕囚の間は、囚人も同然でした。縮こまり、俯いて生きていなければありませんでした。それは、私たち自身の姿だと気づかなくてはなりません。罪に囚われ、自分が本当に希望する方向とは逆のことばかりやっています。分かっているつもりでも悪を為しています。
結局、悪しき者に囚われているのです。しかし、主はそこから解放します。それが約束です。「私は主、あなたの神」との声が聞こえます。「あなたの口に私の言葉を入れ」ると言う主。言葉は出来事であると共に、力であり命です。「手の陰にあなたを隠し」て守る主。なぜこれほどまでに民を愛されるか。この後で、苦難の僕がそれを明かします。