聞く耳と語る舌

チア・シード

イザヤ50:4-7   


私は主により造られ、主と向き合ってこそ生きている。生かされている。主との直接的な関係の中に置かれ、有機的に結びついている。私は主と出会う経験をしたのです。主からのものを受けて、主へと何かを渡そうとしたのです。けれども、私から主に与えたり返したりするようなことはできません。そんなものは私にはありません。
 
私はいま、同じように主によって造られた人間たちの中にいます。そこにいて、主とにのつながりを意識しており、確かなものを握っています。私が、もし弟子としての役割を与えられているとするならば、このイザヤの体験が生き生きと伝わってくることでしょう。語ること、その能力を確認した後、耳の力を感謝します。
 
何はともあれ、まず聞くところから信仰は始まります。主が私の耳を開いた。だが私はそのために、痛い仕打ちを受けます。打とうとする者がいたのです。私は背中を向けさせるままにしておきます。髭を抜こうとする者がいたので、私は頬を差し出します。と、鈍い私も気がつきます。山上の説教でイエスがこのようなことを言っていたではありませんか。
 
辱めがあり、唾を吐かれました。なすがままでありました。イザヤの僕の姿がここにも見られます。やはり誰なのかと気になりますが、この僕をイエスの姿と重ねる眼差しを怠らないようにしたいと思います。私もまた、この生き方に従うのだという信頼が生まれてくるのが当然だ、そのように歩み出したいと思います。
 
主なる神が私を助けることを疑わないでいる、そこに信頼を置くのです。この痛い仕打ちがあっても、神の前に恥となることはありません。ほんとうの辱めは、そういうところには起こらないことを知っているからです。地上で人前で辱めを受けたとしても、神の国の出来事ではありません。神の前にはそれが義とされることを知っているからです。
 
そう、これが神の前に義とされるということ。私を究極的に裁くことができるのは、主です。その主が味方なのです。何を恐れる必要がありましょうか。鼻で息をする者を恐れるなど無用なのです。聞く耳と語る舌を与えられたという僕に倣いましょう。私もまた、聞く耳と語る舌を切に求めなければなりません。いえ、求めたいと願います。


Takapan
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