預言が向けられているのは

チア・シード

イザヤ49:7-13   


イザヤは、イスラエル民族だけを見つめていたと思います。この預言は、イスラエルの復興についてだけ述べればよかったのです。イザヤ書全体が、そのようにしてイスラエル民族に対してのみ告げられていたはずだったのです。けれども私たちがいまこれを見ています。私たち自身へ与えられたものとして読むのが、信ずる者の読み方です。
 
すると、響き方が異なってきます。私たちは、これを人類全体へのメッセージだと理解するのです。主はイスラエルを贖う方であり、聖なる方です。「聖なるかな」とセラフィムが飛んでいた召命から、イザヤは主をそう見つめています。その主があなたを選んだ。この「あなた」をイエスに於いて見る者は、健全なキリスト者であるかもしれません。
 
しかし、一つの決まった読み方を聖書が求めているかどうかは分かりません。新約の手紙や福音書の中では、旧約の言葉を自由に受け止めています。キュロスに重ねてもよいのです。キュロスは油注がれていたから、メシアとして捉えてもよいし、当然私たちにとりメシアはイエスです。問題は、そう解することで、この言葉が命を与えるかどうかです。
 
そのとき、イスラエルはすべての人間のことへと範囲を広げて受け止めることができます。しかし、これを自分個人へのメッセージとして聞くことはできないでしょうか。捕らわれ人は、闇の中にいる者に呼びかけてはいけないでしょうか。主は君たちを助けてくださるお方だ、と主を知らせてはいけないでしょうか。救いの言葉として。
 
呼ばれた人々が、主の前に集まってきます。北からも西からも来ます。主の民となるべく、主の民と定められていたすべての人々が、縛られていた凡ゆる力を打ち破って、救いの日に集まってきます。熱風も太陽も、あなたを打つことができません。そこは水の湧くところです。かの土地の環境で、これは命を救う出来事として認識されます。
 
これが「救いの日」です。「恵みの時」です。けれども、これがたとえ信ずる者へ与えられたとしても、この力を発揮したのは、やはりイエスにおいてだ、と考えるべきでしょう。私たちは、このイエスに従おうとすることで、かろうじてその力に与ることになります。人間とやらに蔑まれていようが、忌み嫌われていようが、構わないと言えるのです。


Takapan
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