わたしは誰だ

チア・シード

イザヤ49:1-6   


ヤコブと呼ばれたイスラエルの民。バビロン捕囚の憂き目から、ついに解放される時が来ます。イザヤはその歴史的事実を知っているにしても、描くのは臨場感溢れる方法で、これから起こるというような表現をとります。しかし、ここで預言を受ける者、現代ならば読者は、戸惑いを隠せません。ここでいう「あなた」とは一体誰なのでしょう。
 
主が「あなた」と呼ぶのは見た目は「わたし」です。それは誰なのでしょうか。僕イスラエルと呼ぶ民を集めるためにその「わたし」が呼び出されていますから、イスラエルの民一般ではありません。複雑な構造がここに見られますが、さしあたり、それは預言者イザヤであるものとして見ていくことにしましょう。
 
イザヤは母の胎の内にある時から選ばれていました。これは預言者には珍しいことではありません。いま世界中に主の名を告げ知らせる役を担います。預言者の語る口は剣の力を有し鋭い矢として放たれます。主の隠し矢だというのです。主の輝きを顕す者として立てられたのだとされますが、それでも疲れを覚え、無駄な骨折りをしているように落胆することがあります。その預言者をも、主は力づけ、大切な存在として扱うのだとします。
 
神は「わたし」の力です。イスラエルを集めましょう。カルデヤからシオンへ、イスラエルの民を帰還させる先頭に立ちましょう。そうして主の救いを全世界に輝き知らせるために主に用いられる僕です。「わたし」は預言者であると共に、行動者でもあります。口で語っているばかりでなく、確かに行動する者であることを自覚しなければなりません。
 
預言書ではしばしば預言者と主が語る場面で「わたし」と「あなた」が錯綜するのですが、普通に読んでいればその読解そのものには困難を覚えません。しかし、暫定的に預言者イザヤと仮定したこの僕は、必ずしもそれで通してよいとは思えなくなってきます。もっと具体的に、主から使命が与えられているように見えます。そしてこの後、53章で苦難の僕の姿が描かれると、なおさらそのように思えてきます。
 
主の僕としての本当の役割は、この後に控えているわけです。クリスチャンはもちろん、そこにキリストを思います。神の言葉を伝え世界中へ救いを輝かせることからしても、ここにキリストの姿を重ねて理解することは、クリスチャンとしては自然なことだと言えます。まだ隠された矢として備えられていますが、クリスチャンは自分がそのようにいま備えられていることを読み取ることも許されるのではないでしょうか。この「わたし」だ、と。


Takapan
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