私はヤコブ

チア・シード

イザヤ48:12-19   


第二イザヤは「ヤコブよ、聞け」と呼ぶ。かつて創世記で、ヤコブに神がイスラエルという名を与えました。その元の名で、イスラエル民族を呼んでいます。そこにさして深い意味を読み取ることはやめたほうがよいかもしれませんが、ここで「呼び出した」ということが強調されていることには、注意しておきたいと思います。
 
それまで粗野な生き方をしていたヤコブに、今日からイスラエルという名を与え、呼ぶことにする。神はヤコブを選び、愛し導きました。主の慈しみに満ちた対応でした。初めであり終わりである神は、天地万物を創造し、この世界の初めとなりました。この創造主がヤコブに語りかけ、その道を与え、歩ませます。
 
預言者イザヤが、神から言葉を預かって告げているのは間違いありませんが、私には、キリストが仲介者として言葉を伝えているようにも窺えます。福音書で描かれるキリストの告げ方がそういうものであったと言えるかもしれません。初めからそこにいて、全てを知り、全てを委ねられたのは、キリストであったと言うべきではないでしょうか。
 
他方ヤコブはどうでしょう。私にとって、ヤコブはしょせん他人に過ぎないのでしょうか。キリスト者であれ、今この預言に向き合い、それを受けようとする一人ひとりの読者あるいは聞く者であるこの私こそが、まさにヤコブと呼ばれているのではあるまいか。神は私の名を呼び、声をかけ、聞けと迫っているに違いありません。
 
あなたの神である、と顕れたこの神。その声を聞き、歩むべき道を与えられたとき、私のこの地には、平和が川のように流れます。正義が波のように押し寄せます。子孫は砂粒のように増えると約束されます。イザヤの見る幻は、海のイメージです。祭儀中心のエルサレムのイメージではありません。壮大な海が、世界への拡大を知らせてくれます。
 
我が名は主の前に行きたものとしてこれからも存続するでしょう。命の書には永遠にその名が綴られることでしょう。それを望み、願い祈ります。いまや贖いが成し遂げられ、囚われのバビロンからは解放される時がきた、とイザヤは鼓舞します。大いなる恵みがそこにあり、大いなる慰めが民を、そして私を満たします。
 
旧約の預言は、当然その時代の歴史に沿うものであり、その情況の中で語られたものですから、安易に今の時代に合うように捻じ曲げて解釈するわけにはゆきません。しかし、だからこそまた、いまの私たちにも響くような普遍的なメッセージを含み、神の救いの計画の言葉を私たちがそこから受けることも、きっとできるものと思うのです。


Takapan
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