この主のみが与える救い

チア・シード

イザヤ45:18-25   


主のほかに神はない。いったい幾度繰り返せばよいのでしょう。イザヤを通じて告げられるのは、主がくどいのか、イザヤの心が悔しいのか、よく分かりませんが、それほどにイスラエルがこのことを受け容れない様子を伝えてきます。一回でアーメンと聞くならば、こんなに繰り返す必要はありません。何度言っても分からないからです。
 
この神が世界を創造したのです。世界の初めから神はいたのです。だのに人間は自分の手で神として使った木像などに、どうして興じているのでしょうか。よく、神なるものは人間の観念が創造したのだ、などと論ずる人がいます。イザヤが敵視しているのは、まさにそうした人々です。そんなものなら確かに人を救うことなどできないでしょう。
 
人が人を救おうとしているに過ぎないことを想定している愚かな人間。しかし救いは外から来るものです。自分の内からもたらされるのならば、自分がその神をこしらえているのかもしれませんから、人の手が神を造ることはできません。昔から聞かされていた救いは、外からのものに違いありません。私を創造した方から、私の救いはもたらされるのです。
 
救い主はこの私だ、と主に成り代わってイザヤが叫びます。あるいは、イザヤの口がもはや主となって告げてきます。この声はイスラエルを呼び集めるのですが、すべての人間へと今や響きわたることになります。地の果てのすべての民が、この主を見て、救いを与えられると宣言します。この主から零れ出る言葉に、その力があることが分かります。
 
主の言葉は、取り消すことができません。王の印の付された命令が取消が利かないのと似ています。あらゆる存在者が主の前にひれ伏すべきであって、主の力を崇めるほかはありません。主にはもはや誰も対抗できるはずがないのです。イスラエルは、そしてイスラエルの子孫が、皆主により救われるという驚くべきメッセージがここに発せられています。
 
このように救われることを、イザヤは「義とされる」というようにも表現しています。主の口からは、正義の言葉が出るのであり、その救いは正しいことと認められるからでしょうか。主は、自分にかけてしかこれを誓うことをしません。預言者の正義というのも、この主に拠点を置くのであり、そこに根拠をもつ、確かな救いの知らせでありました。


Takapan
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