現状はどうか

チア・シード

イザヤ44:6-8   


主が堂々と告げる。私のほかに神はない、と。いるはずがありません。この主は、イスラエルの王であり、イスラエルを贖う方です。罪ある人間を赦し、買い戻します。そのままでは神に適う存在ではありませんが、ひとは己れの力でこれに値するように自らを変えることはできません。さらに万軍の主でもあるとまで言います。
 
この箇所では、初めであり終わりである主が強く現れてくるのを感じます。昔からあなたにそう迫っていたではないか、ちゃんと知らせていたではないか。この主こそ神であることを証しするべく、あなたは選ばれたのです。あなたにとって神はこの私しかいないはずです。あなたにとって神なるものは、この私しかいないのだと主が向き合ってきます。
 
そもそも神なるものが、この主しかいない。岩という喩え方によって、主は一つ、区切りを入れているけれども、確かな信仰の土台がここにあることを印象づけています。この私と同じような者がほかにいるだろうか。いるなら見せてみよ、連れて来てみよ。挑戦的な姿勢は、イスラエルの民に向かって、主が正面から臨んでいるが故なのです。
 
見下ろしている訳ではありません。向き合っているのです。主はイスラエルを相手として選びました。元来創造主である神が、被造物である人間にそれほどまでの態度をとる必要はないはずです。しかしこれをいまや「とこしえの民」とまで呼び、かつてのことからこれから起こること、先行きの何もかもを告げ知らせてくれるのです。
 
それを聞くことがまずイスラエルの使命です。そのとき「恐れるな」との言葉をも受けています。何を恐れる必要があるのでしょうか。この後、偶像崇拝者のことに言及されますから、イスラエルの中にこの不穏な分子がたくさんいて、それに対して怯むなというのでしょうか。そう、イスラエルはいま、主から離れ背いている状態だったのです。


Takapan
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