贖いの背後に偶像を見る

チア・シード

イザヤ44:21-23   


偶像というものに対して、揶揄とも言える形で、その無力であることをさんざん言い尽くした後、「ヤコブよ」「イスラエルよ」と呼びかけます。かの偶像と対照的に、あなたはどうするのか、と問うようですが、その内容は「思い起こせ」というものでした。イザヤの口を通して、主なる神が語りかけるのですが、「あなたは私の僕」と聞こえました。
 
この「あなたは私の僕」は繰り返されます。主があなたを創ったのだ。主はあなたを忘れることがありません。このことを「あなたは私に忘れられることはない」と、主語をイスラエルにして述べます。ここまでが21節。続く22節は、「私」という言い方で、「主」が主体となります。主は「あなたの背きの罪を」「かき消した」と告げます。
 
イスラエルもまた、偶像を拝していたのです。一部でたいそう敬虔に主を崇めていたグループもあったには違いないのですが、民の多くが背反していました。それはしばしば指導者の故でした。列王記には、善い王も描かれていますが、偶像崇拝に浸っていた王の名も散見されます。しかし今や「私があなたを贖った」のでした。ビッグニュースです。
 
もう買い取ったから心配するな、と言います。もう片付いた。さあ「私に立ち帰れ」と呼びます。両手を拡げて迎え入れるような光景が目に浮かびます。23節では、天や地の底、山々に木々に、立て続けに命じています。表現はいろいろ変えていても、「喜べ」というのが、その命令です。否、誘っている、と行った方がよいかもしれません。
 
「主がヤコブを贖い/イスラエルの中に栄光を現されるからだ」と結んでいますが、「あなたを贖った」ことが、喜びの根拠であることが分かります。「イスラエルよ」「主なる私は」「誰も皆喜べ」と、一節ずつ視点を換えながら、イザヤは、偶像に跪くことから離れることの幸いを、恰もライトで照らし出すように、ここで示しています。


Takapan
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