想像を絶する出来事

チア・シード

イザヤ44:21-23   


主はヤコブを、つまりイスラエルを贖った。そのスタートには、主がイスラエルを形づくったということがあります。それを思い起こせというのです。主が形づくったとあるなら、僕であるというのは、ひとつの関係であるのでしょう。この僕を主の側では決して忘れることがないというのですから、それだけですでに想像を絶するものがあります。
 
ところがこの主は、イスラエルの罪をどうやら忘れてしまうようです。背きの罪を雲のように、霧のようにかき消してしまうのです。あまつさえなかったことにしてしまう、とまで。親の愛というものに近い何かがそこにあるように思えてなりません。人間的な次元のことにすぎないけれども、子に対して親はそれに近いものを味わうからです。
 
それは、子が変わっていったことを知っている故です。かつてよろしくない状態だったその子も、成長します。経験を重ねて、学習に、変わっていきます。それなら昔のあのことも、もう忘れられるわけです。今のおまえはもうかつてのあの姿とは全く違うのだ、と認めることができます。許すというのでなくとも、すっかり忘れてしまっているのです。
 
忘れることができる。今はもう違うのです。主はこうした心理を、親という立場を与えることによって、人間に感じることができるようにしてくれました。ただ、ここには贖うという行動がはっきり出されています。贖ったという宣言は、その背きの事実を単純に水に流して忘れた、などというものではありません。
 
主がこの購いを為した、とイザヤは漠然と告げるしかできませんでしたが、これには想像を絶する続きがありました。預言者にもたらされた主の言葉は、その後数百年の時を超えて、主ご自身の痛みを通じて、まざまざとその実現を見せることになりました。イエスは、このイザヤ書をよく知っていましたが、まさに身をもってそれを体現したのです。


Takapan
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