ユダヤ人をどう見るか

チア・シード

イザヤ43:8-15   


神の業が見えておらず、神の言葉が聞こえない者にも、神の救いは与えられるでしょうか。ええ。イスラエルの民は現に招かれているのです。ローマ書を思わせるような形で、ユダヤ人の救いが既定路線として示されています。それどころか、失われていた選民が、今こうして導かれることで、主の証人として役立てられるとまでいうのです。
 
こうして、歴史の初めから終わりまで、徹底的に主こそ神であるということを植え付けます。救うものとしては、この神のほか、なにも存在しないのです。選ばれた者たちよ、その中にある神は、この主のほかはあるまい。主こそ絶大な力で以て人々の世界を変えることのできる存在です。イザヤの預言ですから、それはバビロンからの解放です。
 
主こそ聖者、創造者、そして王です。名が示され、救う約束がここに掲げられています。安易にあてはめて分かったような気になることは避けなければなりませんが、キリスト者もまた、元来のユダヤ人の如く、こうして集められたと理解してもよいのではないでしょうか。あるいは、この救いの計画を広く告げ知らせる方を重んじましょうか。
 
神の救いを自ら知り、体験し、それを福音として世に知らせる。この使命を帯びたならば、イザヤが見ていたイスラエルなる存在は、いま世にまみれている異邦人の姿とも重なってきます。イスラエルは救われるのだ、神の創造した人間は、救いのチャンスが与えられているのだ、と呼びかけるのであれば、世界中の人がそこに含まれるに違いありません。
 
この方が初めから神でした。これからもこの方が神です。この構造は揺るぎません。断じて動きません。この確信が私たちにどこまであるでしょうか。問われる気がします。目があっても見えず耳があっても聞こえない人間たち、この表現には障害者に対する配慮が今の時代ならば欲しいところです。聖書は聖書ですが、知恵はないでしょうか。


Takapan
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