預言の中の「彼」と「あなた」
チア・シード
イザヤ42:5-9
「彼」「あなた」と呼ぶ相手がそこにいます。話し手の根本が主なる神であることは当然です。ただ、預言者イザヤの立場から告げられている場合もあるように見えます。表向きの表現が事態を決めているわけではないようで、読者は混乱しかねない箇所だと思います。誰が誰を指してそのように言っているのか、誰に向けて言っているのか、難しいのです。
聖書協会共同訳が「主の僕の召命」と題しているのは解釈であり、「主の僕」という言葉自体がここにあるわけではありません。新訳の徒としては、ここにイエスを見るしかないし、直前の「傷ついた葦を折らず/くすぶる灯心の火を消さず」(3)といったフレーズに、イエスが弱い者、小さくされた者を救う姿を重ねるのは、自然なことです。
そのとき「彼は」という主語があったのですが、イザヤが主の視点に立つようにして、主が「私」、イエスを「彼」としている構造があるように見受けられます。しかし全体的には、生命を与える創造主として立てた後に、その主が「あなたを呼び」、手を取り、守ると言い、さらに人々との契約そのものだとした上で、世界の光としたのでした。
それからイエスの姿も描くように見えます。「目の見えない人の目を開き/捕らわれ人を牢獄から/闇に住む者を獄屋から連れ出すため」という言い方をしますが、それが目的であるというよりも、結果として見た方がよいような気がします。主が「あなた」と言って向き合っているのが、御子イエスのことだとして見るのはキリスト者として当然です。
このイエスを一種の使者のように扱いながら、「私は主」だと改めて宣言します。その栄光は偶像に与えるようなことをしません。主は「民に息を与え」「霊を授けられる方」なのです。注目したいのは、「見よ、先にあったことは実現した」というところです。神の言葉が現実となったという証しがここにあります。私たちもこの跡を見ています。
しかしまた、「そこで、私は新しいことを告げよう」とも付け加えます。「それが起こる前に/私はあなたがたに聞かせよう」との宣言は、「あなたがた」としての私たちのことなのでしょう。まだ起こっていない預言、これから起こるであろう出来事の預言が聖書にあります。もしかするとこの「彼」「あなた」を私が引き受けることができるでしょうか。