沈黙の声

チア・シード

イザヤ42:1-4   


主の僕への言及は、イザヤ書の中でも何度かありますが、その中で「わたし」と称しているのは、預言者イザヤを通して現れて語る神です。主があなたを喜ばれる。これはイスラエルに対する多いなる励ましでした。主が支えると言ったのです。何がなんでも支えると言うのです。この言葉ひとつにいくら信を置きすぎてもかまわないでしょう。
 
この言葉ひとつに支えられてこそ、私たちの歩みは成立します。霊が神より注がれ、たとえへたに叫び回らなくても、正義をもたらす器として生きよ、というその声にすがればいい。と同時に、それはまたイエス・キリストの姿であると受け止めるのが、新約の時代に生きる私たちの眼差しであるとすべきでしょう。
 
巷に声を響かせないというのは、イエスが宣教をしなかったということではないでしょう。世の思いの流通する世間へ、神の言葉が権威を以て響くような都を、ついに人は造り得なかったということです。やがて神の言が、つまり神のロゴスが行き渡る都が実現するという幻を諦める必要はありませんが、今目の前に見える世界がそうだと決める必要もありません。
 
巷は巷であって、神の国ではありません。なんといってもこの僕は、弱い葦を折ることすらしないのです。人間は存在自体としてはそういう弱い一本の葦に過ぎない、そうなぞらえたのはパスカルの信仰でした。どんなに消えそうな灯心の火も、空しく消し去るようなことをしないのがメシアであると告白したのです。
 
小さな事に忠実であることが求められている、そう受け止めることもできます。公正はこの世では小さなこととなってしまいました。但し、そこらに傷ついた葦が沢山あります。心折れたと表現している人々も、神の目には決して折られてなどいません。神はそんな魂を簡単に折らせはしないのです。神は小さなものに信実を尽くします。
 
世界の島々がこれを待ち望んでいるとイザヤは告げます。今はともかくとして、地の果てにまで、海の向こうにまで、福音は届くということであり、命の言葉が告げ知らされるということでしょう。いかにもら目立つ叫びが救いなのではありません。沈黙の声が人の望みをつなぎます。聖書から静かに、人を生かす言葉が囁かれています。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります