主の僕はイスラエルか

チア・シード

イザヤ42:18-25   


「主の僕」といえば、イエスの受難を予告するような預言の主人公である。キリスト教徒は、誰もがそう思っています。イザヤ書53章の痛々しい描写は、イエスと重ねて見えて仕方がない、と言えるでしょう。ただ「主の僕」という訳自体は、イザヤ書には42,50,54章に一度ずつ現れるに過ぎません。モーセも幾度となく「主の僕」と呼ばれました。
 
イザヤ書の「主の僕」は、その役割が多く説明されており、確かにイスラエルに救いをもたらす者として描かれているのだと思います。けれども、この42章ではなんだか違います。「主の僕のように目の見えない者があろうか」とさえ言っています。「私が遣わす使者」も並行している表現ですから、「耳の聞こえない者」でもある、ということになります。
 
「あなたは多くのことを見ながら、従わず/耳を開きながら、聞くことはない」との訳の通り、「あなた」は単数です。「主の僕」は一人として表現されています。「しかし、この民は」と始まる22節からは、悲惨な情況を示しており、イスラエルの滅亡と捕囚を伝えているのは確かでしょう。ただ、この「民」にあたる主語も、やはり単数なのです。
 
すると、「主の僕」自体は救世主ではなくて、同じ単数の「民」と同一視することが自然であるようにも思えます。イスラエル自身が、主の言葉を正しく聞いておらず、正しく見ていなかったわけです。障害を負った方には不快な響きに感じられることでしょうが、理解できないこと、分からないことを表現しているように捉えてみたいのです。
 
「この方に対して我々は罪を犯し」ました。「我々」は複数ですが、これもイスラエルのことでしょう。でも、それは読者をも巻き込んでいます。イザヤもです。痛い目に遭いました。惨状を突きつけられましたが、それでも「悟る者はなく」「心に留める者はなかった」わけで、「主の僕」がイスラエルのことだ、と見る可能性もあるように思うのです。


Takapan
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