地の果てと島々に思いを馳せて

チア・シード

イザヤ42:10-13   


イスラエルの地の人々にとり、海とはどういう存在だったのでしょうか。海を知る民族としては、たとえばペリシテ人がいたわけですが、貿易の盛んな町々として想定されていたのかもしれません。イザヤは、島々へ主の歌を届けるべく、主の栄光を告げるべく、声を上げています。ただ、イスラエルの人々は、どれほどの島々を知っていたのでしょうか。
 
遙かギリシアに属する島々しかないような気がします。キプロス島があり、離れてクレタ島があります。その周辺を含めた島々くらいしか、知る可能性はないように思うのです。大陸につながるギリシアやイタリアを島々と呼んでいたのなら、また話は別ですが、島というと、地中海のそのくらいしか私には思い当たりません。
 
海に漕ぎ出してそこに向かうならば、ギリシア文明と出会います。その歴史と伝統も、十分知られていたことでしょう。そしてそこは、敵として認識されていたと思われます。主は勇姿であり、戦士です。主の力は、いかに文明文化が発展していようと、その人間に劣るようなものではないのであり、誇らしげな気持ちがあったに違いありません。
 
しかし古代の歴史の中で、イザヤの預言がいったいいつの時代の言葉であるのか、ということを考えると、その設定により、見えていた時代情況は変わってくるはずです。私のような素人が、迂闊に決めつけるような発言をすべきではありません。憶測や想像に過ぎないものでありますが、聖書の舞台に立ってみることは許して戴きたいと思います。
 
私たちにできること、なすべきことは、主に向かって新しい歌を歌うことです。主は新しいことを告げるとこの直前で言っていました。主の僕の言葉を、島々が待っているとし、命を与える生ける主が、これから起こることを知らせようとしています。地の果てから、この主を称える歌が響いてきます。私がいるのも、その地の果てのひとつです。


Takapan
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