喜び賛美しよう

チア・シード

イザヤ42:10-13   


イザヤ書の42章が開かれると聞くと、どうしてもあの「傷ついた葦」のくだりが頭に浮かびます。説くほうも、そこから話したくなるのではないでしょうか。これはイエスのことです、などと言いやすいかもしれません。しかし、その次に主に向かって新しい歌を歌え、と叫ぶところから今回は開かれています。さして特徴のないような主への賛美みたいな箇所です。
 
バビロンに捕囚されていたイスラエルの民は、やがて故郷に還ることができる。第二イザヤなどと呼ばれますが、預言者はこの喜びを、権威を以てここに告げます。弱気を助けると告げた次のステップで、こうして主を称える歌を歌うのです。これは新しい歌であるといいます。もちろん、新曲を次々と発表せよという商業目的の意味ではありません。
 
地の果てから歌えというのは、当時の中東での感覚でしょうが、海が見えたらそこに浮かぶ島々、それが全世界であるかのように想定されていたかもしれません。イザヤは知る限りありったけの世界観をここにぶつけます。遠くまで、世界の果てまでこの知らせは届くのです。主はその土地すべてを戦い取っていると言い、すべて生ける主の業だと確言します。
 
イエスの旅は、弱い立場の人々に力を与え、人間が人間を縛る状態からの解放をもたらすものでした。神の律法が人を苦しめたと誤解する必要はありません。律法を用いて、人が人を不自由にしたのです。だからイエスは律法そのものを否定したのではありません。イエスは低い立場の人々が抑圧されないでよいのだと信じさせようとした、とも言えるのです。
 
そのために、抑圧する側への批判を止めず、そのために世の権力がイエスを殺しにかかったことになります。その狂気の力に屈したような惨めな姿をイエスは一度は晒しました。けれども、神はそこから復活させる道を拓きました。この神の力を喜び賛美するというダイナミックな表現がここにあるのだとすれば、私たちが賛美をするようにとお勧めしましょう。
 
私たちは、賛美せよと自らを鞭打つ必要すらありません。神がそのように押し出すのを待てばよいのです。私たちも主のように誰かを助けたいと思うことがあります。でもしばしば助けた自分のほうが、助けられたような思い懐きます。ならば万軍の主の前にはただ助けられるしかないのです。これを喜びましょう。イザヤの誘う喜びの歌に参与しましょう。


Takapan
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