主の僕とは誰か

チア・シード

イザヤ42:1-13   


新しい歌を主に向かって歌え。詩編でもしばしば見られるフレーズで、高らかに神を誉め称える言葉です。このイザヤの回復の預言の中で、一定の説明の脈絡の中でこのフレーズが出てくるということは、より具体的に、適切な意味の解釈が施されていくことが期待できます。詩編の言葉と少し違うところもありますが、「新しい歌」とは何か、興味が湧きます。
 
先立ってあったことは今や成就したのであるから、新しいことを主が告げる、そのように言っています。今からやがて起こることを預言者に対して、そして預言者を通じて、聞く耳をもった民に教えようとしています。すでに神の民と呼ばれる人々には限りません。異邦の民、海の彼方の人々が主を称えるようになるというのです。
 
ここにある表現の一つひとつが、具体的に何を表しているのか、それは定かではないにしても、全世界の被造物が主に立ち帰り、主を賛美する時がくることを示しているように見えます。但しそこには、敵と呼ばれる存在があります。偶像に依り頼む者、他の神につく者です。天地を創造し命を生んだ神がほかにいるのか。誰が人に霊を与えうるのか。闇の牢獄に捕らえられることを、この主はよしとしません。
 
イスラエルはいま傷つき、折れそうな葦の茎に過ぎない状態です。バビロン捕囚は民の誇りを踏みにじり、これから先どうなるのか望みを持たせないような状況に皆を追い込みました。しかし神は、そんな弱いイスラエルを大切にしている、と天を見上げます。もう風前の灯火であったとしても、それを消し去ることをなさらない方を信じます。
 
私たちの心はすぐに折れそうになります。もし折れても、決して断ち切ることはしない、というのがフランシスコ会訳の表現です。イスラエルは偶像ではない何かを見ます。もちろん神ですが、神もまた霊であり、目に見えるものではありません。主の僕を見よ。第二イザヤは、ここを始めとして幾度か主の僕を指し示します(49:1-7, 50:4-9, 52:13-53:12)。
 
主の僕とは誰か。明確にそれが誰であるかは説明されていません。預言者であるのか、イスラエルの民全般であるのか、謎ですが、新約の民はこれをキリストと共に観ます。その教えを全世界は待ち焦がれており、教えを届けるための器が必要とされます。そのために立ち上がる者が、またこの僕となるでしょう。私たちが、この僕となってよいのです。


Takapan
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