主人と僕

チア・シード

イザヤ41:8-10   


イスラエルと他の国々との差別がはっきり示されています。神が世界の創造神であるならば、これは余りに理不尽でしょう。何故に特別扱いをイスラエルだけが受けるのでしょうか。その小ささや頑なさを思うと、私たちは理解ができません。神の思いが人の思いとは違うとよく言われますが、この点は間違いなく理解不能な根本問題です。
 
だがイスラエルよ、こう呼びかけて、神はイスラエルを他と明らかに区別します。私が選んだ、とまで言います。イエスが弟子たちに、私があなた方を選んだ、と言ったヨハネのシーンが脳裏に浮かびます。あなたこそ私の僕なのだ。この選びはどういうことなのか、私たちはどうしても疑問に思うしかありません。
 
そのように思っている私自身が、やはりこの同じ種なる神に見出されて拾われたところから始めるしかないのですから、改めて驚きを隠せなくなります。では一体、何故私がこうしているのでしょうか。何故私が救われたのでしょうか。神の友である、イスラエルの父祖アブラハムは、カルデヤやウルといった遠いメソポタミアの地から呼び出されました。
 
それは地の果てと呼ぶにはあまりに隣接した陸続きの土地です。それに比べると、日本は遙かに遠い地の果てだと言えます。文句なしに地の果てです。私はそこにいたのです。そこから連れ出され、呼び出されて神の声を聞いたのです。僕ではないか、私が選んだではないか。おまえを受け容れており、拒むようなことはしていないのだ。
 
ああ、恐れる必要がどこにあるでしょうか。勇敢であれ。ヨシュアへ告げた主は、ヨシュアが勇敢ではなかったからこそ、そう言ったはずです。ならば、たじろぐ私もまた、この言葉を向けられて然るべきだったわけです。そう聖書の声を聞く必要があるでしょう。私が小さいから、弱いから、救われたのだ、と。正にイスラエルと同じです。
 
私があなたの神である。だからあなたは私の僕である。この関係を、どういうわけか人間は近代にあって逆の意味をここに読み込むようになりました。人が神を支配し、コントロールするなどと考えるようになったのです。人が神を証明したり、神を指図したり、神を殺したりさえするようになりました。少なくとも人はそう思いました。
 
人は、支え、助けられている己れの立場から、いままたバベルの塔を建てて、主より高く力を伸ばし、神を出し抜いた気になっています。主人と僕という関係は、可逆的なものではないはずなのに、思い上がってしまいました。イエスはこうした僕たちに厳しい裁きをもたらす譬を話していませんでしたっけ。


Takapan
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