無敵の存在

チア・シード

イザヤ41:6-16   


章の初めに「島々よ」と呼びかけますが、それは海を見ていることを意味します。エルサレムは高い場所にありますが、そこから海が見えるのかどうか、私は知りません。でも地中海に面した地域もイスラエルにはありますから、そこから広がる風景は、確かに海、そして遠くにあるギリシアの島という世界を感じさせたことでしょう。
 
島々、それは多くのものが見えるわけではないにしても、異国文化を漂わせる存在なのでしょう。そしてそれもまた神の国、神の支配下のものとなれば、もはやイスラエルに敵するものではありません。こうした諸勢力が結束したとしても、神のイスラエルは格が違います。これをヤコブと元の名で呼ぶのは、歴史の厚みを感じさせます。
 
それどころか、さらなる祖先のアプラハムをも呼び出すのは興味深いものです。イスラエルの民よ、地の果てのどこにいても、主はあなたの名を呼び、一つに集める。主が選んだ民である。棄てることのない民である。主なる神に対する僕という関係は、単に仕えるというだけのものではありません。主人は僕を守る責任があるのです。
 
何か起これば、主人が僕を匿います。だから僕は慌てる必要はありません。たじろくこともありません。主はあなたを強め、助けてくださいます。勝利を必ずや授けるでしょう。もはや誰も、このイスラエルに敵対する者はいなくなります。民へ怒りを表すようなことがもしもあったとしたら、恥辱の中に埋もれなければならない羽目になるでしょう。
 
イスラエルと争えば、虚無と化すことが分かっているからです。もう言い争いすら存在しなくなります。戦いでもしたら、この世界から永久に抹消されてしまうことになるでしょう。主が全面的にこのイスラエルに味方するからです。イザヤは、このくらい強気の姿勢で攻めます。イスラエルは救われ、豊かに回復するのだ、と高らかに宣言します。
 
しかし、現状は捕囚の身です。惨めであり、回復の見込みなど立っていない中での預言という形をとっています。たとえ捕囚からの解放の後の記述であったとしても、あの解放の奇蹟というものは、ありえないことが起こったように見られたことでしょう。この私も、死んだ自分に命が与えられたということが、とても信じられないほどなのですから。


Takapan
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