神の権威を予告する

チア・シード

イザヤ41:1-4   


イザヤ書は40章から様相を変えます。著作者も書かれた時代も違うというのが、現代の定説です。ここからしばらくを、第二イザヤと称して、描かれているイスラエルの回復を読み取るのがよいとされています。ここでは島々へと呼びかけていますが、預言者の視野には、全世界があると言えるでしょう。
 
イスラエルにとり、海に浮かぶ島は、それだけで広い外の世界、そしてこの世の果てへつながるものとして目に映っていたことでしょう。イスラエルの神が全世界の主として権威をもち支配することを、島々が主の前で静まるということを通じて表そうとしています。主が世界の主権を執るということにほかなりません。
 
これはイザヤが考えたことではないかもしれませんが、神の国の到来としてこれを受け止めることが可能でしょう。互いに裁きを行うというような書き方をする新共同訳の1節は分かりづらくなっていますが、フランシスコ会訳や新改訳のように、共に裁きの場に出ることを意味していると考えると分かりやすいような気がします。誰もが神の前に出るということです。
 
主が東から正義を起こすことが書かれています。もちろんこの正義というのは、具体的な人物であり政権を表します。東は日の昇る方角です。これからの時代の夜明けを暗示すると見られます。かつてユダヤ人は東を、アブラハムのことと重ね合わせて考えていたと思われます。しかし今は、45章で油注がれた者とまで呼ぶペルシア王キュロスを思い描いているのでしょう。イスラエルの民をバビロンから解放したからです。
 
あまりにも異国の王を褒めすぎですが、イスラエルにとりそれほどに、このペルシア王の解放令は神的な出来事でした。バビロン捕囚のダメージは、そこまで酷かったのです。そもそも旧約聖書が成立したのも、バビロン捕囚の故ではないかという研究もあるほどです。ユダヤ教がユダヤ教として成立したのも、捕囚があってこそ、とも言われます。
 
けれども、キュロスがヒーローだということではありません。キュロスを起こした究極の主体は、イスラエルの神です。ここは忽せにできません。世界の初めから、この主がすべてを支配しています。この主の計画の中で、あらゆるものが動いています。「初めから」とありますが、語の意味合いは「頭から」「端から」で、「初めであり」のところとは別の語です。
 
主は終わりとなる神ではありません。せいぜい、終わりと共にある、あるいは終わりを生み出す主であり、権威者です。この主なる神を人間がどのように想定すればよいのでしょう。預言者の言葉は、決して物語を創作しているというふうではなく、確かに現実にはたらきかけてきたし、これからもはたらきかける権威者を示すものとなっています。


Takapan
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