良い知らせを伝える者よ

チア・シード

イザヤ40:9-11   


良い知らせを伝える者よ、声を上げよ。この言葉を噛みしめたいと思います。否、まともに受けて、それに従いたいものです。自分の魂が救われた、それは結構なことです。喜ばしいことです。でも、それを己が胸の内に潜めて、してやったりと笑むようなことであってはなりません。注がれた恵みは、ここに蓄えておけと与えられたのではないのです。
 
すでに良い知らせを受けた者は、それを伝えなければなりません。否、伝えずにはおれないはずです。その恵み自体、そのような性格を有しています。主の言葉は永遠に立つ、と今気づいたではありませんか。これを叫ばずにいられましょうか。力の限り声を上げよ。恐れるな。呼ばわるはシオンの丘、エルサレムの町であれといいます。
 
「見よ、これがあなたがたの神である」という言葉には、どのような意味合いがあるのでしょうか。あなたがたが信じている神はこちらにいるよ、と示されているのです。それとも、あなたがたは、そもそもこの神を知らなかったとでもいうのでしょうか。新たにこの方だと日本人に示すように指さすことに似ているのかもしれません。
 
あるいは、イスラエルの人々が、誤って他の神の方を向いていたために、それは違う、こちらだ、と教える様子なのかもしれません。いずれにしても、イザヤの指摘にはまだ含まれていなかったタイプの「良き知らせ」が、いま私たちには与えられています。イエス・キリストの救いが、ここにあります。十字架と復活のイエスが、確かに見えます。
 
人間が安易に思い描くような力を帯びて、この神は来ませんでした。イザヤの言うように、羊を飼っていました。小羊を腕に抱いて、母羊たちをも率いていました。十字架の上に惨めな姿をさらすこととなりましたが、それにより人間の罪を完全に破壊することを成し遂げました。イエスは良き羊飼いとして、命を棄てて救いを達成したのです。
 
その良き知らせに、自分は呼ばれたのだ。そのように信じ、従う者には、力が与えられました。確かな救いを与え、喜びをもたらしました。その救いをまた拡げるために、イエスの名を叫ぶのだ、と教えてくれました。何を絶望しているのだ、何を悲しんでいるのだ、ここにイエスがいるではないか。こんなに良い知らせはないではないか。


Takapan
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