良い知らせを本当に聞いているか

チア・シード

イザヤ40:9-11   


力の限り声を上げよ。イザヤ書は40章になり、明るく変わります。いまの聖書学の常識からすると、ここからそれまでとは別人、別の時代の筆記であるといいます。慰めよと呼びかけ、国の再興への第一歩が始まるのです。おそらくすでに、捕囚の民の帰還が始まっています。エルサレムに優しく語りかけよ、と言います。
 
呼びかける者が現れ、これを新約の時代のキリストの徒は、洗礼者ヨハネのことと見ました。しかし、イザヤがこれを主から命じられ、民に呼びかけています。新約の記者たちもここはかなり注目していて、幾度も引用しているような箇所ですから、このイザヤの思想も、キリスト者にとり馴染みもあるし、理解しやすいものと言えるでしょう。
 
けれども、それ故になおさら、一方的に意味を決めつけて呼んでしまいがちでもありますから、気をつけなければなりません。さあ力の限り声を上げよ。恐れるな。そのために高い山に登れ。山の上の町は光を隠す必要がない。そしてそこから声を響きわたらせるのです。良い知らせを伝えよ。正にそれは「福音」ではありませんか。
 
この神を見よ。そこに福音がある。力を帯びて来られる主です。現実に神の国が見えてきます。神の支配が実現するのです。安心するがいい。主は君たちを、小羊を羊飼いが抱いて運ぶように、連れて行ってくれるのです。主がイザヤにこれを命じているとも取れるし、そのイザヤがまた次の預言者にそう託しているかのようにも見えます。
 
けれども、それは巡っていま私たちのところに届いています。私たちが慰められているのです。でも、それは本当でしょうか。本当に私たちは、聖書の言葉に慰められているでしょうか。この慰めの声を、本当に私たちは聞いているのでしょうか。この神を見よ、と言われて、間違いなく見ていると言えるでしょうか。
 
説教を私たちは礼拝で聞きます。そして、分かったような気にだけなっています。もう何度も聞いたから筋は知っているよ。今日の話は深みが足りなかったかな。そんな批評さえして、新鮮な驚きを失っていないでしょうか。しかも失っているとしてもそれに気づかない。見よ、と指示されているのは、この私へ向けてなのだ、と気づきたいものです。


Takapan
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