人の知らず聞かざる世界の姿

チア・シード

イザヤ40:12-24   


あなたがたは知らないのか、聞かないのか。それは初めから聞かされていたはずのことです。天地は主が創造しました。このまとまりでは、誰がしたのか、と問いかけます。答えは決まっています。神の他の何ものでもありません。ましてや人間の手によりできることではありません。今ならどういうとよいでしょうか。自然にできたとでも言うのでしょうか。
 
人格的知恵をもつ偉大な創造主が、一定の計らいを以て生みだしたものではならのなら、どうしてこの生命が現れ、知恵が作用するのでしょうか。見よ、主はこれほどの大きな業をなしているではありませんか。主の前では、膨大な数の人間も、まとめあげた国民なるものも、全く以て虚ろなものにすぎないではありませんか。
 
人が世界の主人のように振る舞っています。この時、あたかも神なるものが人間の上に立つものとして君臨するかのように人間の側が掲げておきながら、実はその神をすら人間が支配して道具として利用しているようなことになるわけです。これがいけません。巧妙に、人間が実際支配する筋書きが仕掛けられています。貧しい者も木で偶像を造るのです。
 
この点、聖書は公平です。貧しいというだけで弱く正しいなどとはしないのです。しょせん人間です。もちろん地上を支配するつもりの権力者たちも、いてもいなくてもさして影響のない、大した意味のない存在に過ぎません。植えられもしないし、根を張る暇もありません。これはまるで、良い地に落ちなかった種の譬えと同じです。
 
無きに等しく、君主と雖も殆ど無に変わりないものです。主の前では、私たちの目から見て偉大な人間にしても、しょせん無なのです。主の住むところは、狭い幕屋あるいは神殿ではありません。世界の器に、創造主を招き入れることなどできません。この壮大な世界観を私たちはどう受け止めましょうか。
 
人の視座から見える風景は、あまりにも小さいものです。限られた視野だけを知り、そこから論理を組み立てます。自分が中心の世界を見てその配置を考えるから、自分が中心であるかのように錯覚します。しかし、人の理解の中に収まるものは狭く小さいものです。私たちは、知らないのであり、聞くことができないのです。すべては。主の世界は。


Takapan
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