国家と神

チア・シード

イザヤ40:12-26  


慰めのイザヤ書40章は、キリスト者にとって愛すべき章です。心を支える言葉がふんだんに見出されます。荒れ野に道を備える呼ばわる声は、バプテスマのヨハネを表します。草花は衰えても永遠に立つ神のことばは、新約聖書に二度にわたり引用されます。主は小羊を抱く羊飼いとなって群れを導きます。主に望みを置く者は疲れることなき希望を抱き続けます。
 
ところがこの中間に位置する今回の箇所は、目立たない扱いを受けています。ここを味わってみましょう。ヨブ記の終わりで、主が大自然を創造し支配する様子が、一つひとつの例を具なって示されるのにも似た、しかも反語を通して、神が人間と比較にならない存在であることをぶつけてきます。主に指図をするような力のある者が人間の中にいるはずもありません。
 
イスラエルに敵対し、支配を企てるような大国ですら、手の前には何の力もない存在です。栄華を誇る国々も、垂れる滴のようなもの。その程度のものなのです。主の前に人のつくるものは、どんなに大国でも無に等しいとまでイザヤは断じます。すべての人間を支配し圧迫もする国家権力も、無きに等しいものだと言うのです。
 
1924年のパリ・オリンピック大会でのエリック・リデルを描いた映画「炎のランナー」がありました。大英帝国の命ずる、競技への出場を、安息日には走れないと拒むエリック。狂信者と非難されなからも、パリのスコットランド教会での礼拝で開いたのが、このイザヤ書40章でした。映画の印象的なシーンでした。40:12を読み上げます。国家など、神の前には何ものでもないではないか。
 
当時としては世界の終わりのように見えたほどの第一次世界大戦が終わってまだ6年。傷ついたヨーロッパは、まだドイツの不気味な動きは現れていなかったにせよ、国家を神として立てそれに絶対的に従うべきだとする空気があったことでしょう。国家は偶像でした。けれども、この宇宙や自然を創造したのは、そんな国家ではありません。人間にはそんなことはできません。
 
エリックは友の提案で、平日に行われる、走り慣れない中距離の種目に出場します。走り方も違う種目でしたが、神の栄光を胸に受け、主を喜びつつ駆け抜けます。それは、神が与えてくれた金メダルでした。イザヤ書の慰めと永遠の言葉の護り、そして疲れを知らない恵みの章の中央に、実は最も強調されていたものが輝いていました。国を拝めという魔物に、私たちは本当に最後まで首を横に振れるでしょうか。天を見上げて喜びを受けて走れるでしょうか。
 
概ねこの創造の秩序の中を旅させて、ヨブに、どこにいたのか、何ができたのか、と問いかけます。厳しいようですが、人間の分を弁えるという意味で、神はむしろ愛を以て諭しているかのようにも見えます。文学的に多くの見どころのあるヨブ記ですが、旧約聖書を様々な形で踏まえ、読者一人ひとりに問いかける姿勢を見出すことは幸いでした。


Takapan
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