希望が導く道

チア・シード

イザヤ40:1-5   


ヒゼキヤ王がバビロン捕囚の当事者となることを明らかにしたイザヤは、次に、イスラエルの民のユダヤへの帰還の幻を告げます。どうしてもそこには、時代的なギャップが走るとも見られますが、かの地での捕囚生活が数十年続こうとも、うたかたの幻のようなものとして、消え去ることを示しているようにも思えます。
 
たとえそれが実現しない中での夢であるにしても、そこには声が呼ばわっていました。聴覚的な刺激がイザヤに及び、希望のメッセージとなって流れ出ます。「荒れ野に主の道を備えよ」との言葉は、そこに民が列をなして進む様子を表します。主のみが通る道というのではありません。主が栄光を現すのです。主の民が帰還するからです。
 
新約聖書はこれを、洗礼者ヨハネの使命のように描きました。イエスがこの後に来る。それを先導し、メシアの登場を人々に叫ぶのです。イエスが通る道であったのですが、それはまた、その道に人々が引き寄せられ、救われる民が行くことになることをも表していました。罪に囚われていた人々が、イエスに従って救いの道を歩む、壮大な幻です。
 
ヨハネはこのとき「慰めよ」との主の指令を聞きます。人々の苦役のときはこれで終わる、過ちは償われたのだ、と慰めるのです。ここはあまり注目されないようですが、含蓄深いものです。人は救われるのです。罪から救われるのです。その帰る道は平坦で、真っ直ぐです。主の栄光に輝く道であり、世界中の人がそれを目撃します。
 
さらにこれが、後の世になるとキリストの香りを豊かに放つ凱旋として、パウロが華やかに告げることを、いまの私たちは知っています。それに与る者は、懐に入りきれなくなる宝を押し入れられ、神の祝宴の招かれて、いつまでもそこで神を称える賛美の歌を歌うのです。希望だけが、この道を、私たちのところにまで延ばし、私たちを連れて行きます。


Takapan
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