危機を逃れて
チア・シード
イザヤ37:21-31
「アモツの子イザヤ」という呼称は、イザヤ書の中で七度現れます。ここでは、ヒゼキヤ王の前に出ることで、どこか改まった態度でいることを表しているのかもしれません。王には、できる限り味方をしています。いまエルサレムは危機の中にあります。アッシリア王からラブ・シャケが使わされ、高官に向けてイスラエルを罵倒する言葉を浴びせました。
民もそれを聞いていました。ヒゼキヤ王は民に、彼を刺激しないよう沈黙を守らせましたが、愚弄されたことは間違いありませんでした。ヒゼキヤ王は神に祈ります。この屈辱に耐える王は、神との対話の中に生きるしかありませんでした。これに対してイザヤが神の言葉として応える、ここはそういうシチュエーションとなっています。
アッシリア王センナケリブは不遜な態度をとります。しかし、エルサレムこそがセンナケリブを蔑み、罵るのだ、と主の言葉をイザヤは取り次ぎます。その高慢は何か。豪語するのは何ゆえか。イスラエルの地に入り込み、それを荒らして、大地を自由に支配したつもりかもしれないが、そんなことは主なる神には幾らでもできる小さなことに過ぎません。
イスラエルの町々を破壊してきたアッシリア王も、主の前には小さな者でしかありません。その「立つのも、座るのも/出るのも、入るのも」すべて知られていることに過ぎないのです。さあ、引き返すのだ。エルサレムから離れるのだ。イザヤは、アッシリアへの裁きを宣言し、それから次にイスラエルの慰めを告げ始めます。
作物も、次第に元のような実りがもたらされ、国の経済は回復します。再び人々は、平和を得ることになるでしょう。この後、主の使いが現れ、アッシリアの陣営は壊滅します。センナケリブは退却し、偶像礼拝の最中に二人の息子により殺されます。息子たちも王位には就けませんでした。イザヤは正に神の意を伝え、国は一旦危機を免れたのでした。