主の救いを見るとはどういうことか
チア・シード
イザヤ35:1-10
イスラエルが主に背き、一旦罰を受けるような形になりました。これは否定することができません。けれどもイザヤは、全般的に敵国の滅びを中心に預言します。諸外国に苦しめられるイスラエル民族は、結局主に救われるのだ、そういう基本構図は崩しません。第二イザヤに於いてその救済はより明確に示されますが、ここは第一イザヤであるはずです。
しかし恰も第二イザヤ以降のように、ここにも豊かな救いの幻が描かれています。美しい、イスラエルの回復の姿です。物語としては、まだバビロン捕囚が終わっていない頃です。でも、一部そうした出来事はすでに始まっており、特に北イスラエル王国の惨状はショックだったことでしょう。その暗い情況の中で、慰めの希望がもたらされます。
「聖なる道」が敷かれ、「主に贖い出された者たちが帰って来る」のです。そこには歓喜があります。喜びと楽しみを伴いつつ、民は帰って来ます。第一イザヤの中にも、こうした捕囚の救いが、こんなにも生き生きと語られていました。このため、後の時代の記述だろうという推測が、学問的には言われています。どう読もうと、それは結構です。
この章は、まず情景が美しい。大地の歓喜が、擬人的に語られます。イスラエルの山々の輝きが謳われ、それは主の栄光に擬えられます。だから「弱った手を強くし/萎えた膝を確かにせよ」と民を励まします。「強くあれ、恐れるな」との声を、不安を懐く人々に告げるのです。「神は来られ、あなたがたを救う」のである、と。
そこでは、人間の常識的な考え、即ち思い込みというものが、すべて破られてしまいます。「その時」に起こることは、目や耳の不自由な人々が、見えるように、聞こえるようになることをはじめ、足の立てない人々も、見事に立ち上がることです。思えば、どれもイエスがしていたことではありませんか。イエスは、この日の到来を知らせていたのです。
乾いた地は水で潤うと言います。生ける水が腹から流れ出るとイエスは宣言しました。その水はヨハネ伝では十字架のイエスから流れました。水は命を表しています。乾きが、人の渇きと重なって、主の救いを求めたとき、そこは命の地に変わります。咲き溢れる花が囲み、私たちはそれまで見聞できなかったものを知ることになるのです。