主によって現実となる光景

チア・シード

イザヤ35:1-10   


第二イザヤ、第三イザヤなどと、研究者たちがこぞって口にする用語があります。イザヤ書としていま私たちが手にするものは、筆者も時代も明らかに異なる三つの部分に分かれている、という定説です。すでに恰も公式のように認められているようなイメージがあります。けれども、聖書はそのように単純に決められてしまうものなのでしょうか。
 
イザヤを分断する仮説が、逆にイザヤを人間の枠で読み込んでしまわないように、警戒しながら読んでもよいのではないでしょうか。第一のイザヤの部分にこの35章は属するのですが、これはなんと美しく、希望に満ちあふれていることでしょう。破壊された都と祖国に、ただ絶望するばかりでなく、驚くべき回復の日が眼前に輝くかのように提示されます。
 
イスラエルの回復は、第二イザヤの特権であるかのように捉えてしまっている人がいますが、やはりそれは違います。元来のイザヤと研究者が認めるこの箇所でも、人はどんなところからでも夢を見ることが許されるかのように感じられます。それは決して空しい絵空事ではなく、神から与えられた、いずれ現実として人が経験するビジョンです。
 
具体的なイメージが、これでもか、と並んでいます。ここに己れの心を重ねることができるかどうか、でこの幻が自分の中のものとなるかどうか、が決まります。ここは荒れ野であり、乾いた地です。手は弱り、膝は萎えています。獅子が待ち受け、ジャッカルがひしめいています。でも、神の言葉は確かに来ます。強くあれ、恐れるな、と声がかかります。
 
砂漠は歓声が響き、神の輝きが現れます。命に満ちた地になって、救いが起こります。それまで見えていなかったものが見え、聞こえていなかったものが聞こえます。歩けなかった人が歩き出し、口の利けなかった人が神を賛美します。人が誰もまだ知らなかったようなことが、たちどころに分かるようになります。
 
ずっと隠れていた事柄が、神の現実となるのです。囚われた民が、喜びの歓声と共に行進して、祖国に戻ります。そこは巨大なメインストリート、大路が敷かれます。聖なる道と呼ばれる道、神の備えた道です。捕囚されたユダヤ人たちは、絶望の日々を経て、いまや光の中を歩みます。その姿に、私たちも自分の姿を重ねることができないでしょうか。
 
贖われた者たちのみが通る道ですから、イエス・キリストの救いに与った者は、そこを通ることができることになります。帰って来る。喜びと楽しみに包まれて、シオンへ向かう者たちの唇には、賛美の歓声が響き渡ります。聞こえますか、その声が。目に浮かびますか、その光景が。この幻は、いずれ私たちにも、主によって現実のものとなるのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります