安穏とした女たちとあなたたち

チア・シード

イザヤ32:9-20   


王により支配され、義が現実となる預言が出されます。これによって救われる者たちの歓喜の声が生まれ、それで物語が終わるわけではありません。憂いなき女たちに、イザヤの目が向きます。それは、呑気な女、安逸を貪る女たち、という訳もあります。安んじているこの女たちへの警告は、何を意味するのでしょうか。
 
やがて突然おまえたちは慌てふためくであろうと預言をします。その時になって急におののき、嘆き始めるしかないことが告げられます。繁栄を誇っているような女たちのところは、たちまち滅びの様相を帯びるのです。そしてついに神の霊が注がれて、世界は一変します。神の正義が、人々の安逸さ云々に関係なく、容赦なく押し寄せてきます。正義が平和を呼び、信頼をもたらします。
 
イスラエルとして神に選ばれた民は、本当はこの平和のもとに幸いな存在となるべきであったのです。でも、この女たちはそうはなりません。そもそも起きて目覚めてさえいないのです。身構えていません。呑気すぎます。一体この女たちとは誰なのでしょう。イザヤの目から見るならば、これは遅くユダです。
 
イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされました。しかしその様を見ても、ユダ王国はどこか他人事です。ユダはうまく切り抜けたと安堵し、呑気に構えています。今すぐ影響が出るとは考えていないのです。だがイザヤは分かっています。ユダも二の舞を舞うのだ、と。バビロニア帝国に事実壊滅されるのですが、イザヤにはまざまざと目の前に浮かんでいるのてす。
 
神が「わが民」と呼ぶのは誰のことなのでしょう。イスラエルでもないし、ユダでもなくなります。もはや現実の王国の中に、これに相応しいものは見られません。正義がとこしえの静けさと信頼とをもたらすと言うのですが、私たちにはそれが実感できません。その上で「幸いなり」という言葉が届きます。「あなたたち」と呼ばれる者が存在します。それは誰なのか。この謎は、新約が穴を埋めることによってこそ、解決できるのでしょう。


Takapan
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