自分は正義だとする人間
チア・シード
イザヤ32:1-8
人は誰も、自分こそ正義であると考えるものです。そうでないと生きて行けないとも言えます。正義とは自分のこと。けれども暴力によって他者の正義に従わねば生きてゆけない事態に陥ったらどうするでしょう。その他者の正義を、自分の正義だと思いなすのです。こうして力によって己れの正義を多くの人間にとっての正義に染め上げる者がいます。
それが権力者です。人間にとっての正義は、力関係によって変わり動きます。小国イスラエルもまた、周辺の大国の振りかざす正義に操られて当然でした。だがそこには、絶対的な神への信仰がありました。少なくとも、それがくすぶりつつ存続しておりました。イザヤは、「正義によって一人の王が統治」する神の国を掲げ、それを滅亡させませんでした。
「見る者」がいます。「聞く者」がいます。どんなにせっかちな者でも、しかとそれを認識します。どんなに語るに劣る者でも、確かな証しを告げることができます。もはや偶然的な人間の勢力によって正義がころころ動くことはありません。神を敬わず、神に従わない者には、もはや正義はないのです。神のみが正義なのです。
イザヤの神は「飢えている者を空腹のままにし」ません。「渇いている者に水を飲ませ」ます。人間の観念が生み出した理想の夢を言っているだけだ、と嗤う人々がいるかもしれません。けれどもイスラエルの神は、その理想こそ真実である、と言います。現実を支配しているかのように見える力こそ真理と言う者は「ならず者」であり「愚か者」なのです。
貧しい者の訴えを偽りの言葉で破滅に陥れようとします。でも神の言葉による支配は永遠に立ちます。嵐がきても隠れ場となり、砂漠の水路として命を支えることでしょう。人間が正義だとするとき、その場凌ぎの力はなっても、永遠不変なものとはなり得ません。自分こそ正義だとする人間は、悔い改めねば滅びてしまうことでしょう。