愚か者やならず者と無縁だと思うな
チア・シード
イザヤ32:1-8
「愚か者」と、あるいは「ならず者」と呼ばれる者が登場します。これを、自分とは違う人間だとしか見られない者がいます。聖書をよく読んでいるような顔をしながらこれでは情けない。それどころ、この「一人の王」こそ自分だとまで思い込む始末で、少なくとも「高貴な人」であったつもりでイザヤ書を歓迎しているのは、それこそ愚かです。
「見よ」との訳は適切です。省略しないことで、預言の書の力強さが伝わります。イザヤは、主の言葉を私たちにぶつけます。「正義によって一人の王が統治し/公正によって高官たちが治める」と。ユダヤ文学的には、これらは同じ一つのことを指し示します。複数の高官は文字通り人が何人かいることを示すとは限りませんし、それで構いません。
これが終末のことなのか、歴史の中の一コマであるのか、判然としません。イザヤの見ているイスラエル民族の危機をさしあたり乗り越えたところに成り立つ王国が、そこにイメージされているのかもしれません。でも、キリストを仰ぐ私たちからすれば、メシアの救いが実現する神の王国を見つめていてもよいのではないかと思います。
その治める様は、「逃げ場」「隠れ場」となり、「水路」「岩陰」となるでしょう。人間の価値は、見せかけの狂いもなく、その実体を明らかにします。おまえはこの「愚か者」であり、「ならず者」であったのだ。今もそうであるかもしれません。悪事を行い、神を敬うことをしません。「主について惑わせることを語る」点を重く見るべきです。
行政の非情さや裁きの不合理も挙げられていますが、神について適切な告知をしない、あるいはできないことを、軽く見てしまっていないでしょうか。「神を敬う」ポーズに、人は騙されやすいのです。私もかつて騙されました。そのため教会破壊を助長してしまいました。「ならず者」の暴挙を支えてしまっていたのです。悔やみつつ、いま叫びます。