幻がもたらす平和

チア・シード

イザヤ32:15-20   


イザヤは、イスラエルの歴史の壮大な動きを見渡していました。その先に訪れる救いの時を望み、またそれを預言しました。主は言われる。この告知は、果たしてどのような形で、イザヤの身の上に現れていたのでしょうか。私たちはそれを知る由もありません。ただ、ここでイザヤが、主の霊のはたらきについて言及しているのを押さえてみましょう。
 
天から降るその霊は、間違いなく神からの霊です。荒れ果てたイスラエルの国が再興する出来事を、幻のように見ています。荒れ野は果樹園になり、さらに豊かな森へと発展します。命の育まれる環境が調うということです。そこに宿るものとして、公正と正義が挙げられます。人の世における命、それが正義というものなのかもしれません。
 
正義は人の世を潤滑に動かします。神の義が人の世界に実現するのは当然かもしれませんが、人がそれを妨げていたことを覚るべきです。しかし神の力は、この正義により、平和をもたらすのだ、とイザヤは言います。不安な世界である一方信頼があることが、ここに明らかにされてきます。民はこの平和な世界に生きるようになりうるのです。
 
平和な住まいで民は暮らします。不安もなく生きていけます。自然災害は拒めないかもしれませんが、実害を負うことはないのだとしています。人々は、豊かな農生活と牧畜をこなすことができ、まことに幸いなり、という情況になるというのです。イザヤは、目に見えるような言い方で、イメージ豊かに、これらを断言しています。
 
私たちが愚かであっても、十分分かるように語り伝えてくれます。この幻を受け止めてくれるか。イザヤは私たちに、そう問いかけます。耳のある者はこれを聞け。当時の人々に対してはもちろんのこと、それを伝え聞く後世の人々、果ては現代の私たち、そしてこの私へまでも、同じ問いをぶつけてきます。さあ、肯定を返せるでしょうか。


Takapan
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