愚かな者とならず者

チア・シード

イザヤ32:1-8   


王は正義によって統治する。あたりまえのことではないか、と人は思うかもしれません。けれども、そのあたりまえのことが、なかなか行われないのが世の常です。人間が王として立つとき、このもどかしさがあります。王や高官が正義と公平をモットーとすることが、イスラエルにどれほどあったことでしょうか。
 
列王の書を見るとき、情けないほどの人間の性が突きつけられてきます。かのダビデ王ですら、汚点はいくつもあり、黒歴史に満ちていたのです。但し、これはイスラエルが主に立ち帰る時の幻です。イザヤは、イスラエルが回復し、主の支配が訪れたときにどうなるかを提示します。逆に言えば、人の世はこんなものとは全然違うと言っているわけです。
 
目が曇り、聞き分けられぬ耳。己に有利な話しか聞こえないし、弱い者の虐げの中からの叫びには耳を塞いでいることになります。そもそも聞こえやしません。心は軽率で短気なもの。まともなことを語ろうとしても、舌が回りません。私たちの夜に見られる風景が巧みに描かれているとは言えないでしょうか。実に耳が痛いほどに。
 
高貴とされている者どもが、実に愚かであることも、殆ど常識となっている悲しい現実。一体、愚か者とはどういう者のことなのでしょうか。心には企みがあり、神を敬うことがありません。神である主について、ひとを惑わすような偽りを言いふらす。弱者の助けなど関心がなく、自分が主を偽るだけでなく他人をも同じ道に巻き込む。イエスがファリサイ派などを非難した時のことを思い起こさせます。
 
ならず者あるいは卑劣な者と呼んでもよいでしょうが、ここに並べられてきます。貧しい者を正当さを装いつつ、追い散らしてしまいます。それは暴力的な奴らのように見えます。が、むしろ正義を操る者たちです。為政者であり、裁判を司る役人です。そしてこれは今の世では、民主主義と言うからには、市民・国民一人ひとりのことなのです。
 
かつては、一部の権力者のわがままだと言い逃れをすることもできました。しかし現代は、その権力者を、民主という名の下に主権者であるとされる、国民が、そして私が選んでいます。正しい王を期待する本人が、正しさに反する社会を選んでいるのです。この構造にすら気づかないというところに、現代の罠とその根深さがあります。


Takapan
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