家を巡るイザヤの幻
チア・シード
イザヤ2:1-5
預言者イザヤの召命のエピソードは6章を俟ちますが、すでに第1章からその預言は始まっています。「ユダとエルサレムについて」の幻は告げられます。ユダ王国、特にそのエルサレムに、イザヤの眼差しが集中しています。そしてしばしばその時は「終わりの日」です。いまどんなにそれが崩れていても、どんなに悲惨な姿を見せていても、終わります。
ここでモチーフになっているのは「家」です。まず「主の家の山」という形で登場します。「終わりの日に/主の家の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる」のです。「主の家」がエルサレム神殿を表していることは明らかです。そこへ「多くの民」が来ます。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に登ろう」と声を掛け合いながら。
山の神と見られていたことも聖書から窺えますが、エルサレムが山にあることが背景にあると言えるでしょう。「ヤコブの神の家」も、やはり神殿でしょう。「ヤコブ」は後半生「イスラエル」との名をもらい、いまのイスラエルへまで受け継がれています。「主はその道を私たちに示してくださる。/私たちはその道を歩もう」と民は言います。
「道」は、現代の「宗教」のような意味を含有します。ここでは「ユダヤ教」であり、私たちには「キリスト教」です。この「教えはシオンから/主の言葉はエルサレムから出る」のです。この主は裁きをなします。多くの民は「その剣を鋤に/その槍を鎌に打ち直す」というのですが、とても美しい平和のメッセージのように聞こえます。
これを、思い込みから見当違いの解釈をするグループも、世の中にあります。「もはや戦いを学ぶことはない」と聖書に書いてあるが故に、学校で柔剣道の練習には参加しない、と親から強いられる生徒がいるというのです。残念なことです。ただ、聖書の言葉をそのままに受け取ることの意味を考えさせてくれるものだとは思います。
そして現代のイスラエル国は、それくらいの理解を少しくらい有ってもよいのではないか、とは思います。イザヤは最後に「ヤコブの家よ、さあ、主の光の中を歩もう」と呼びかけますが、その相手は明らかにイスラエルの仲間たちです。この「ヤコブの家」はイスラエルの民であり、そこには光に満ちた道があるはずなのです。