光を共に受けよう

チア・シード

イザヤ2:1-5   


イザヤ2:2-4は、ミカ4:1-3と変わりません。終わりの日のことが、預言者イザヤに幻として示されたのでした。ユダとエルサレムについての幻です。ミカには、このような前口上はありません。やはりイザヤにこそ与えられた幻なのでしょうか。さあ、ヤコブの家に登ろう。人々は声をかけ合います。都に上るのは楽しみだったのでしょう。
 
都上りの詩が、詩編に並んでいます。昔の人の旅の機会でもあり、日常を離れてどこかスカッとする効果もあったのではないでしょうか。一方で、主への信仰から、という素朴な思いももちろんあったはずだとは思います。教会へ集まる人々が、信仰をベースにしてつながっているとは必ずしも言えないという様子と、少し似ているかもしれません。
 
なにかしら居場所があるような気がして、優しくしてくれる人々から敬意を以て接してもらえると、嬉しいものです。それが欲求の満足であるとして教会にせっせと通う人も、実際いると思われます。もちろん、この預言の詩がそうだと決めつけているわけではありません。ただ、共に巡礼しようという楽しみも、きっとあったことだろう、と思うのです。
 
主は教えを下す方。エルサレムから主の言葉が出るというからには、教会では、神の言葉が出来事になるという説教のことを重ねて、私たちは捉えることができるだろうと思われます。この主が、国々の間の争ういに決着をつけます。だからこそ、人はもう戦う必要がなくなっていきます。剣も槍ももう要りません。軍備にもう金を費やさなくてすみます。
 
軍備費は、人が食べて暮らしてゆくためにこそ、用いられたほうがよいのです。私たちの生産活動は、食べて暮らすために使われてほしいのです。戦いの研究は、互いに滅亡を近づけるだけにしか役立ちません。そんな甘いことを言っていたら、侵略者に殺される。誰もが互いにそう言って、衣食住よりも軍事のために血と汗を流すことになるからです。
 
イザヤは、ミカにはない一つのフレーズをもっていました。「ヤコブの家よ、さあ、主の光の中を歩もう」というのです。光の中を歩め。イエスの言葉が、ここに重なってこないでしょうか。主の光を受けて、光の内を、光あるうちに歩む。イエスの言葉に促されて、共に歩む私たちの姿を、そこに幻のようにでも、見たいではありませんか。


Takapan
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