嘲る者たちに残されたチャンス

チア・シード

イザヤ28:17-22   


隅の親石というフレーズがあれば、新約聖書のイエスの言葉とつながります。そのため、キリスト者は色めくことでしょう。でも、そこで満足してストップしてしまうのが常です。今日は、その次の節から見てみることにします。主は公正と正義を守ると宣言して、シオンに対しては、洪水に押し流されるであろう、と厳しい宣告をします。
 
朝も昼も夜も、洪水が来ると言います。あのノアの時代の洪水が、よほど歴史の中の恐怖であったことか、よく分かります。主の憤りは止まりません。人の重いところを遙かに超えた技を主はなすと告げます。これは、嘲りを止めないことから来ているように読めます。14節で「嘲る者たちよ」と呼びかけていたのが、そもそもの始まりだったのです。
 
自分たちは大丈夫だ、神の民だ、滅びることなどありえない。そんな豪語する声が聞こえてきそうな、エルサレムの支配者たちに対して、イザヤは吠えています。己れの不正はどうするのだ、主の正義を蔑ろにしてどうするのだ、と責めるのです。神不在の人間の、自称正義あるいは神という名を利用して自らを建てる偽りを暴くのが、イザヤの仕事です。
 
この自己本位の宣言を、イザヤは「嘲る」と呼ぶのです。これを今すぐ止めよ。という主の言葉を伝えます。でも、だということは、まだチャンスがあるということになりませんか。悔い改めがまだ赦されているように見えます。定められた滅びと言いながらも、裁きがもう決定されてしまったのではなく、やりなおしの機会が与えられているのです。
 
誰もまだここから変わることができる。などというのは、いかにもおめでたい、好都合な解釈であるのかもしれません。しかし聖書、特に預言書は、神からその人へのメッセージであるわけです。その人がそれをどう受け止め、応えるか、に応じて信仰を示すことが許されています。縄目が十字架で解き放たれたと信じることさえ期待されているのです。


Takapan
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