仕える神の姿

チア・シード

イザヤ27:2-6   


イザヤはぶどう畑の愛の歌が好きなようです。5章に続いて、ここでもまたその歌の必要を指摘しています。「その日」は特別な日であり、やがて来る主の日に、神がこの世のことに決着をつけるのです。ぶどう畑がイスラエルの地または民を表していることは確実で、主が愛してやまないものです。ただ、ここには気になるフレーズがあります。
 
「主である私はその番人」だというところです。「絶えずぶどうに水をやり、畑が荒らされないように夜も昼も守っている」のだそうです。どだい、地球レベルの昼夜の概念をここにもってくること自体、人間の視点で表現しているに過ぎないことは明らかなのですが、それは人間イザヤを通してのことなので、誤りだというつもりはありません。
 
むしろ、主が僕のように仕えているという図式に、驚きを隠せないのです。番人というのは、主人ではありません。主人に仕えているというよりも、ここではぶどう畑のために仕えていると見てみましょう。私はここで、弟子たちの足を洗ったイエスの姿が重なって見えて仕方がありません。この世に仕える神の姿、なんと畏れ多いことでしょう。
 
でも、その姿とは裏腹に、この主には権威があります。権能をもち、潜在的な力を有しています。立ち向かうものを焼き払い、捨て去るのです。それを求めないなら、和解するがよい、などとも言います。そう、神との和解が必要なのです。それも、神の側から和解を求めて手を差し伸べています。滅ぼす力と正義をもっているはずであるのに。
 
この和解の後に、イスラエルの地に相応しき人々が居場所をもって住みつき、そこで花を咲かせ、実りをもたらすであろうとイザヤは告げます。この和解を、人間はなおも受け付けはしませんでした。その故に、神はやがてイエスを遣わし、絶大な犠牲を払います。これにすら背を向けるならば、もう神としては、為すすべががないとすべきでしょう。


Takapan
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